連載・特集

2024.7.2 みすず野

 物理学者で随筆家でもあった寺田寅彦は、大正11(1922)年「蓄音機」と題した一編で「あらゆる『自然の音』のレコード」こそが「あらゆるレコードの中で最も無害で有益でそして最も深い内容をもったものではあるまいか」(『寺田寅彦随筆集第二巻』岩波文庫)と書いた◆「自然の音」の例として、山里の夜明けに聞こえる鶏や犬の鳴き声に和する谷川の音、浜辺の夕闇に響く波の音の絶え間をつなぐ船歌の声を挙げる。「その効果は思いのほかに大きいものになる事がありはしまいか。少なくともそれによって今の世の中がもう少し美しい平和なものになりはしまいか」と考えた◆寺田は文明の利器が便利より、精神的幸福を目的に発明、改良される時が来ることを望み、信じるといい「その手始めとして格好なものの一つは蓄音機であろう」と記した◆「もしそういうものができたら、私はそれをあらゆる階級の人にすすめたい」とも。いま、こうしたCDはたくさん作られている。それこそ簡単に手に入る。では当時より、世の中は美しい平和なものになっただろうか。「寺田先生の書かれたとおりです」とは言えないのが残念だ。