連載・特集

2024.07.08 みすず野

 中学校の美術の教科書に掲載されていた岸田劉生(1891~1929)の洋画「麗子像」は、生徒に強烈な印象を与えた。劉生の長女・麗子がモデルで5歳から15歳頃まで「油彩、水彩、木版画など、現存するだけでも100点以上描かれている」(『洋画家の美術史』ナカムラクニオ著、光文社新書)そうだ◆劉生は大正9(1920)年から14年まで日記を書き続けた。『摘録劉生日記』(岩波文庫)にまとめられている。日記はどこかおかしい。寒いと布団を5、6枚かけ、かんしゃく持ちで気に入らないことがあると周囲に当たり散らし、後で必ず反省。そしてやたらと相撲を取る◆大正9年7月8日の日記は「逗子へちょっと行った勝利も帰って皆で夕食し、夜丸山、勝利などと角力とる。丸山と勝利はいいとり組也。椿も来合わせまた角力とる」と。読者はなぜか元気付けられる◆劉生は38歳で急逝。麗子は父の死後絵を描き始め、役者として舞台に立つ。戯曲や小説を書き、日記を読み返して劉生の評伝などを発表。「48歳で亡くなるまで、やはりひとりの表現者として生きたのだ」(『洋画家の―』)。そう父と同じように。