若山喜志子の歌碑守る 弟子の三男・塩原正二さん 塩尻

塩尻市広丘吉田出身の歌人・若山喜志子(1888~1968)が60年前、広丘郷原出身の弟子・塩原常雄さん(1893~1964)の死を悼んで詠んだ弔歌を刻む石碑が、広丘郷原にある。常雄さんの三男・正二さん(79)=広丘郷原=が建立。「師弟の絆や交友の証し」として大切に守っている。
弔歌は2首あり、『若山喜志子全歌集』には収録されていない。正二さんは喜志子が弔歌を記した書簡も保管してきたが、「短歌の里・塩尻」の貴重な資料であり、短歌史研究などに役立ててもらおうと昨秋、塩尻短歌館(広丘原新田)に寄贈した。
喜志子は夫・牧水の没後、歌誌『創作』を引き継ぎ、戦後は松本で創刊された歌誌『朝霧』の顧問も務めた。常雄さんは『創作』や『朝霧』に所属し、農業を営みつつ歌を詠んだ。喜志子の歌碑が国鉄(当時)篠ノ井線村井駅前に建立された際も尽力した。
喜志子は戦後、故郷に近い崖の湯に滞在することが多く、常雄さんもしばしば訪れて交流。常雄さんが詠んだ歌に「湯の宿の夕餉は鯉のアラヒにて老を親しむ師の君と吾れと」がある。老いについてしみじみと語り合う様子が思い浮かぶ。
喜志子が詠んだ弔歌は「去年の春共にあひ見て語りしを昨日と思ふにはや君は亡し」と「老いぬれば残るいのちはいよいよに惜しまむものと語り合ひしを」で、師弟関係を超えた歌友としての親しさが伝わる。
正二さんは、常雄さんの没後、崖の湯にいた喜志子を訪ね、弔歌と香典のお礼を述べた。喜志子から『創作50巻記念合同歌集』を贈られた正二さんは「『ここにお父さまの歌が載っていますよ』と優しく教えていただいた」と振り返る。弔歌の石碑は25回忌(昭和63年)に合わせ、塩原家の墓の隣に建てた。常雄さんは「この丘に立てばまことに五月晴れ我が娘が嫁ぎし村の森見ゆ」などの歌も詠んだ。常雄さんの遺稿集をまとめた正二さんは「父の歌も多くの人に知ってもらいたい」と願っている。