地域の話題

島木赤彦が助言書き込んだか 「広丘歌会」の冊子、短歌館に寄贈

寄贈された広丘歌会の回覧冊子。左側の冊子の末尾に助言がある

 アララギ派の歌人・島木赤彦(1876~1926)が広丘尋常高等小学校(現・広丘小学校)の校長時代(明治42~44年)に、地域の青年らを集めて歌会を開いた際の「回覧冊子」が、塩尻市広丘原新田の塩尻短歌館に寄贈された。青年らが詠んだ短歌が毛筆で記され、回し読みをしていたようだ。末尾には助言が書き込まれており、同館の藤森円指導員は「赤彦が指導した証の可能性がある」とする。

 同市広丘郷原の塩原正二さん(79)が寄贈した。塩原さんの自宅に保管されており、表紙に「広丘歌会詠草 第五」と書かれた冊子と、表紙のない冊子がある。
 塩原さんの父・常雄さん(故人)は明治26(1893)年に地元で生まれ、この歌会に参加した。後年に常雄さんが記した随筆「短歌作りの想い出」によると、常雄さんは「牛屋」と呼ばれた赤彦の住まいに青年たちと訪れ、歌の手ほどきを受けた。集まりはその後も「広丘歌会」と称して継続したようだ。「赤彦先生は軽い感覚的な歌はいやだと言われました。そして万葉集の歌を賞揚されました」と振り返っている。
 冊子には常雄さんらが詠んだ短歌が並び、上に毛筆で「〇」と書かれた歌もある。末尾には「腹の中から吐き出した力のある声を聞きたい」「自己の生活を真面目に歌って見てハ(は)如何」とも書かれている。「真面目」の3文字には強調の記号が添えられている。藤森指導員は助言の文について「筆跡や常雄さんの文章などから赤彦が書いたと思われる。写生を重視したとはいえ、感性もしっかりと出してほしいという思いだろう」とする。
 常雄さんは歌誌の『アララギ』や『創作』に所属し、戦後は地元の歌誌『朝霧』で作歌を続けた。赤彦が校長を務めたのは約2年間だったが、藤森指導員は「歌を作る楽しさを伝え、歌人を育ててくれた」と功績を説明している。