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空襲で焼け野原、九死に一生 元信大教授の広瀬健夫さん

80年前の戦時下を振り返る広瀬さん(4月2日)

 けたたましい音で目を覚ますと、街は真っ赤に燃え、姫路城のシルエットが不気味に浮かび上がっていた―。
 太平洋戦争末期の昭和20(1945)年7月3日夜から翌未明にかけて、兵庫県姫路市が受けた大空襲だ。当時、母親やきょうだいと姫路に暮らしていた元信州大学教授・広瀬健夫さん(93)=松本市蟻ケ崎4=は80年がたつ今も、あの出来事を鮮明に覚えている。

 兵庫県に生まれ、父親の仕事で東京に住んでいたが、19年7月に姫路に疎開した。この時期、絶対国防圏とされたサイパンが陥落。火薬の化学工場に勤めていた父親は納品先の海軍省関係者から「東京は必ず空襲になる。大変なことになる」と聞いてきたという。学童疎開が本格化する前だったが、母ときょうだい7人で親戚の家に身を寄せることに。程なく国内の空襲は激化していった。
 20年になると神戸市で空襲が頻発した。「次は自分たちだと姫路はパニックになった」。居候は肩身の狭いものだったこともあり、母親が必死に郊外に家を探して購入し広瀬さんは兄と二人、大八車で何度も荷物を運んだ。空襲に見舞われたのは全ての家財を運び入れた7月3日の晩だった。
 姫路市平和資料館によると、この時飛来した米軍機B29は107機、焼夷弾攻撃767トン、罹災面積は306万9000平方メートル。「男児は火を消すまで逃げるな」とたたき込まれた時代、広瀬さんは消火に意欲を見せたが、一緒にいた姉がつかんだ手を離さない。勢いに押されて森の中に逃げ込み翌朝戻ると、辺りは一面焼け野原になっていた。「今思えばとても消せる火ではなかった」。九死に一生を得た。
 空襲後、罹災者への行政支援は1軒1袋の乾パンのみ。風呂には1カ月近く入らず、家族と着の身着のまま過ごした。8月初め、信州・安曇野に間借りできる家が見つかり、満員列車で北上。車窓には焼けた街が広がり乗客は静まり返っていた。愛知県内の空襲で足止めを食うなどしながら名古屋に着き、翌朝長野行きの列車に乗り継いだ。
 「するとびっくりしてね、こんなに美しい世界があったのかと。とにかく毎日ささくれ立っていましたから」。列車が走る木曽谷には豊かな森や清流がどこまでも広がっていた。松本で大糸線に乗り換え、安曇追分駅に到着したのは出発から三十数時間後。蛍の群れが乱舞していた。その後10日ほどで日本は敗戦したが、悔しさを感じることはなかった。
 「あの時、美しい自然の一つ一つを前に人間はなんてばかなことをしているのかと心底思いました」。歴史学者になった今も、あの戦争は何だったかを問い続けている。