2023.6.4 みすず野
あまりうれしくないが、今年も雨の季節の到来だ。雨音で目覚めると、それだけで朝の気分が重くなる。車で移動していても、雨傘は手放せない。持ち物がひとつ増えるのはうっとうしい◆作家・吉村昭さんの家は、若い女性が住み込みで家事一切をこなしていた。帰宅した吉村さんは折り畳み傘を台の上に置き「あの蝙蝠、雨に濡れているから干しといて」と頼んだ。いつも返事のいい女性が黙って傘を見つめている◆傘は黒く、折り畳んであるので、動物の蝙蝠と思い恐怖感を抱いているとわかった。吉村さんは「私の若い時は、傘をコーモリと呼んでいたんだ」と笑いながら説明した。「蝙蝠、または蝙蝠傘などというのは、前世紀の遺物のような私ぐらい」(『事物はじまりの物語』ちくまプリマ―新書)と◆洋傘は幕末に輸入され、折り畳みやワンタッチで開くような改良はされたものの形態は当時と変わらない。「このような生活用具は珍しい」そうだ。呼び方は単なる「傘」となった。大学生になって上京したころ、傘を「蝙蝠」と言ったらけげんな顔をされたことが忘れられない。吉村さんのように、今でも蝙蝠と呼んでしまう。