連載・特集

2025.1.29 みすず野

 洗面台の前に立ったら、鏡の中に父親がいた。ああ、そこにいるねと思ってすぐ、何年も前に亡くなっていると気づく。映っていたのは自分の姿だったと誰かが書いていた。自身が晩年の父親に似てきたことに驚いたと◆フランス文学者の辰野隆の父が亡くなったとき、彼にはすでに二人の子どもがいた。これからの生活の不安を抱え、しきりに父親の夢を見る。父は東京駅などを設計した建築家の辰野金吾◆そんな日々、駅で一人の老紳士が建築家の辰野さんのご子息かと尋ねる。そうだと答えると「昔のお父さんにあまりよく似ていたので」と言って、そのまま去った。「去りゆくその後姿をぼんやり見送ったぼくの両眼に涙があふれて、頬を伝った」(『日本近代随筆選3』「夢の中の父」岩波文庫)。生前父を崇拝するような気持ちになったことはないが、夢を見て父を慕う気持ちを取り戻したのかと◆その後30年間、一度も夢に見ない。それからの日々に目安がついたからだろうかとつぶやく。「どうも自分は、何事によらず、人より十五、六年か二十年後れているようである」と。60代になって書かれたこの述懐に思わずうなずいた。