2025.1.16 みすず野
短大や大学でドイツ語の教師を務めた内山保(1901~63)は「私はその頃、郷里信州の山辺温泉の旅館の一室で高等学校(旧制)の受験勉強をしていた。これは東京の家ではざわざわして落ち着かないから、静かな田舎でじっくり勉強するようにとの、父の思いやりであった」と「ドイツ語の歌」を書き出す(『百鬼園先生と私』中公文庫)◆「松本市の郊外にある、この温泉場は客も疎らであった」と続く。その年の試験は不合格だった。翌年「ほんの腰かけのつもりで」法政大学の入学試験を受ける。「十七歳の青春時代、世間知らずの私の、この頃の気持ちは感傷的であった」。文学部を志望して受験したのちに法政大学予科に入学する◆「法政に入ってからは、内田百間に三年間ドイツ語でいじめられた」。漱石の門弟で、小説家の内田百閒だ。「僕はドイツ語では君たちの肉を食らい、骨をしゃぶり、血をすすってやるから、その覚悟で勉強しろ」と言われる◆その百閒の自宅に、書生として住み込み、家族の一員として寝食を共にすることになる。若い日々は予測がつかない。受験の季節。受験生の希望がかないますように。