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学徒動員、空腹との闘い 松本・高田充也さん、戦争を語る

学徒動員の経験をつづった文章を読み、当時を振り返る高田さん

 松本市中山の高田充也さん(96)は旧制松本中学校(現松本深志高校)5年生だった昭和19(1944)年8月、学徒動員で名古屋市の軍需工場で働くことになった。「ほしがりません勝つまでは」の戦争標語があちこちで聞こえた太平洋戦争末期。高田さんは「食べるものがなく、腹が減ってしょうがなかった」と名古屋での日々を振り返った。

 松本中は県内で初めて学徒動員の命が下り、5年生約200人が名古屋に向かった。工場に到着すると、生徒に赤いご飯が振る舞われた。「到着を祝う赤飯かと思った」ものの、よく見ると茶わんにはコーリャン(モロコシ)が盛られていた。
 「戦争だから仕方ない」。そう思ったものの、農家生まれの高田さんにとって、名古屋での生活はあまりにひもじかった。寮で振る舞われる食事は毎食コーリャン。休みの日は食料の買い出しで近くの農家を訪ねたが「私たちも食べるものがないんです」と告げられ、麦やアワなどの雑穀だけ持ち帰った。
 11月ころになると、米国の爆撃機・B29が飛来するようになり、12月に始まった市街地を狙う空襲が次第に激化していった。松本の母から送られてくる手紙は戦況の悪化を心配する言葉がつづられ、涙でぬれた跡のシミが残っていた。「胸が締め付けられる思いだった」。高田さんは当時を思い出し、声を詰まらせた。
 翌年3月末の空襲では住んでいた寮が破壊され、約8カ月ぶりに松本へ帰ることになった。中央本線の大曽根駅を夜8時ころ出発。翌朝松本に着いた後、出発から数時間後に大曽根駅が爆撃されたことを知った。名古屋で命を落とした同級生はいなかったが「いつ死んでもおかしくなかった」と背筋を凍らせた。
 高田さんは戦後、小中学校の教員として働く傍ら、絵本作家としても活動してきた。平成19(2007)年には、当時の体験をつづった「塩むすび」(郷土出版社)を出版した。「ひもじい生活を知る人はだんだんと少なくなっている。今のうちに当時の記憶を残さなければ」と力を込める。