連載・特集

2025.4.28 みすず野

 かつて同僚と、どちらが先に半袖に手を通すかを競った。早いだけなら3月に着ればいいが、そういう野暮なことではない。陽気の変化をみながら、ここだという日に着用して出社した◆作家の開高健は忘れられない掌編小説を記憶をたどりながら紹介する。一人の若者が放浪の果てに故郷の町に帰ると、ある家の庭で老人が芝生に水をまいている。その様子に見とれていると老人がよってきてホースの口を差し向け「一杯いかがといって若者に飲ませてやる。若者が飲みおわって手で口をふいていると、老人は『なんといっても故郷の水がいちばんだよ』といって去る」(『白いページⅠ』(角川文庫)◆どんな旅、どんな放浪をして、その結果どのようにくたびれ、体の中には何があるのか、そうした説明は一切なく、老人についても書かれていなかったと思うが「そのときの滴のほとばしりかたや水の味が白いページからひりひりつたわってくるようであった」と◆放浪にくたびれて故郷に帰るのは、芝生が緑になり、花が咲いて迎えてくれる、ちょうど今頃ではないだろうかと思い続けている。半袖を初めて取り出してくる日のような。