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忘れ得ぬカレーの味 塩尻市の髙橋忠人さん 食糧難の戦中戦後を回顧

食糧難の時代を振り返る髙橋さん

 物々交換で訪ねた先で恵んでもらったカレーライスの味に涙した―。塩尻市広丘吉田の髙橋忠人さん(88)は毎年、終戦の時期になると、戦中・戦後の食糧難を思い出す。「戦争は戦地に行く人だけでなく、家族の人生も変える。絶対にしてはいけない」と反戦の思いを強くする。

 旧上諏訪町(現諏訪市)出身。昭和16(1941)年に太平洋戦争が始まると徐々に食べ物が手に入らなくなった。小学校が終わると2歳年上の姉と川の土手などに行き、食べられる草を摘んだ。「ヨモギなどはみんなが採るので、1本も残っていなかった」。リュックサックを背負い、霧ケ峰まで片道8キロほどを歩いてワラビなどを採ったこともある。
 「食べられる物なら何でも良い」という思いから大変な目にも遭った。ある時、畑で捨て置かれたジャガイモを拾い集めた。青くなっていたが、ゆでて家族で食べると、全員が下痢や嘔吐に見舞われた。
 2週間に1回は汽車で塩尻駅へ行き、現在の洗馬や広丘野村などで、母の着物と食べ物を物々交換してもらうよう頼んで歩いた。何も得られず疲労困憊の後、1軒の長屋を訪ねた時だ。年配の女性が「何もないが、昼を食べ」と、カレーライスを出してくれた。「こんなにうまいものがあるのか」と、親切心に涙を流した。
 戦後、岡谷市の精密加工の工場で勤め、塩尻市の新設工場への転勤を機に移住した。カレーライスを恵んでくれた女性にお礼を言おうと訪ねたが、家はなくなっていた。
 塩尻では仕事、趣味の卓球、野球で多くの人とつながった。「全ての人と仲良くするよう心掛けている。あの、カレーライスのおばちゃんがくれたもの(気持ち)だと思う」と語る。ロシアによるウクライナ侵攻など世界で起きている戦争を憂い「仲良くすれば済むこと」と訴える。