物心ついたときから戦争だった 明科・滝沢幸子さん(94)語る

昭和20(1945)年春、松本駅前で列になって歩く日本兵の1人がかすりの布切れを膝当てにしているのを見て、当時女学生だった滝沢幸子さん(94)=安曇野市明科東川手=は衝撃を受けた。「代わりのズボンがないなんて、日本は負けるんじゃないか」。しばらくして、知人の家で玉音放送を聞いた。
「物心ついたときから戦争だった」と子供時代を振り返る。日中戦争が始まった12年には、「日本が勝って中国から持ってきた」とうわさされる厚手の木綿生地が配られ、母親が足袋を作ってくれた。当時通っていた東川手尋常高等小学校(現・明北小学校)の校庭で、戦死者の葬式に参列した記憶もある。
19年に松本市立高等女学校(現・松本美須々ケ丘高校)に入学。午前中は勉強し、午後は教室を転用した工場で航空兵のセーターや帽子などを作った。背が低かった滝沢さんは作業台が胸に当たり痛かったが、「兵隊さんのために我慢して、一生懸命編んだ」。空襲が激化した翌年、空襲警報が鳴ると防空壕に入らず校内を見回る「週番」になったときには、すれすれを飛ぶ敵機の一部を窓から見たが「死ぬことを怖いとは思わなかった」という。
三郷温の知人の家で敗戦を知り、胸を占めたのは「やっと終わったか」という安堵の感情だった。翌日、一日市場駅に向かう帰り道で、田んぼの中で南を向く直立不動の航空兵を見た。後になって松本市神林の陸軍松本飛行場で、特攻隊の飛行機が1機故障で飛べなかったと聞き、「その人だったのかもしれない」と思いをはせる。
当時、教科書の黒塗りされた部分に何が書かれているか、知りたいとも思わなかったという滝沢さん。「『勝つため、国のため何も欲しくありません』という気持ちだった」と語る。「孫やひ孫が巻き込まれるのは悲しい。絶対に戦争は反対」と力を込め、平和を祈っている。