地域の話題

国のために失った子供時代 勤労奉仕を経験した柳澤さん

戦時中を振り返る柳澤さん

 松本市新村の柳澤敏志さん(90)は、小学校6年生のときに終戦を迎えた。戦時中について思い出すのは、現在の菅野小中学校周辺で昭和19(1944)年に着工した旧陸軍飛行場建設の勤労奉仕だ。児童がまんのうやくわを担いで行き、滑走路に土を運んだ。

 皆、おなかをすかせていた。地元の子は昼食を持参できたが、疎開者は用意できず、休憩時間は木の陰に隠れて過ごす子もいた。母から「分けてあげなさい」と大きなおにぎりを持たされ、言いつけ通りにすると「うんと喜んでくれた」ことが忘れられない。
 作業は終戦間際まで続き、並行して使われていた滑走路は土が十分に固められておらず、戦闘機が着陸しても車輪が沈み込み、ひっくり返ることがあった。米軍は日本から勝ち取った島に一晩で滑走路を造り上げたと聞き、子供心に「これでは勝てない」と思った。
 地元で出征する人がいると、村中で日の丸を振って見送った。あるとき、出征兵士のあいさつに村長がやり直しを求めた。「いってまいります」の言葉が、帰還が前提となり覚悟が足りないという。「憲兵隊を心配したのだろうが、自分もいつかはと思って聞いていた分、心に残った」
 あれから80年近くたち、親に抱かれて笑う子供を見ると「自分にもああいう時代があっただろうか」と思う。戦争一色で幼いうちから国のために働くことをたたき込まれていた。人間同士の殺し合いは現在も続き、ウクライナの子供たちが泣く映像に胸を痛める。「今の子供たちが大きくなり、世界中を平和に幸せにしてくれたら」と強く願っている。