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旧陸軍松本飛行場は本土決戦の航空拠点か 原明芳さんが20年かけ調査

旧陸軍松本飛行場の調査に取り組む原さん

 安曇野市豊科郷土博物館長の原明芳さん(66)が20年近くをかけて、太平洋戦争中に松本市内に展開された陸軍松本飛行場と関係機関を調べている。戦況悪化に伴い、松本飛行場が本土決戦に備えた"最前線"の軍事飛行場になりつつあった状況を、断片的な資料を突き合わせる中で確認した。仮に戦争が長引いていれば「松本も空襲の対象になった可能性がある」とも指摘。調査内容を12日に松本市内で講演する。

 小学校教諭として松本市の菅野小学校に赴任した当時、周辺に残る格納庫跡を調べ始めた。以来散逸する資料の調査を重ねながら、記録が不十分な飛行場の一体的な把握を進めてきた。
 昭和18(1943)年着工の松本飛行場は、19年秋に陸軍の練習用飛行場として使用を開始。その後▽重爆撃機の離着陸地▽特攻隊の中継基地▽軍用機の開発拠点─と複数の性格を有していったという。
 20年に本土空襲が激化し沿岸軍事施設に被害が広がると、陸軍は全国16カ所に航空廠出張所を分散配置。その一つが各務原陸軍航空廠松本出張所だった。軍は前後して、今井国民学校に第一七航空地区司令部、筑摩に陸軍航空本部松本出張所、芳川国民学校に独立一九六整備隊と関係機関も次々松本に設置。三菱重工名古屋航空機製作所に試作・研究部門の松本への移転も命じた。一帯で担える機能も飛行機の改修、補給、警備、特攻機に魚雷を付ける艤装修理と段階的に充実し「前線さながらの飛行場に変化していった」。
 原さんは、終戦時に県内の陸軍飛行場に残された軍用機の数にも注目する。松本の重爆撃機総数23機は県内唯一で、東日本でも有数だった。23機中8機あった四式重爆撃機の数は、関西以東の飛行場で4番目に多かったという。
 しかし「軍用飛行場と航空機生産の一大複合拠点」として整備が進められた陸軍松本飛行場と関連施設は、敗戦後「手のひらを返したように記録が処分され、実態が分からなくなった」。記録や記憶の風化を懸念し「時代の狂気が足元にもあったことを忘れてはいけない」と話している。
 講演会は才能教育会館(深志3)で12日午後2時から。受講料は1000円(ウェブ参加は500円)。申し込みは主催の信州フォーラム(電話0263・34・1514=留守電)へ。

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