2025.1.7 みすず野
正月7日の朝に食べる七草がゆは、平安時代初めから宮中で行われていたのものが一般に広まり江戸時代に定着したとされる。もとは中国でその年の無事を祈って7種類の穀物の入った汁物を食べたのが始まりのようだ(『旬の菜時記』朝日新書)◆「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ春の七草」と覚えたのは中学校の授業だったか。七草がゆは七草全てがそろわないといけないというのではなく、わが家風の七草がゆを炊くのもいいのではないかと、俳人の大石悦子さんは同書でいう◆「七草粥欠けたる草の何何ぞ」(鷹羽狩行)。大石さんはこの句を「七草が全部調達できなかったのを見通して、軽く興じたもの。台所方を責めている句ではありません」と解説する◆子どものころ「七草パック」のようなものはなく、あり合わせの野菜が入っていた。大正3(1914)年東京生まれの国文学者・池田弥三郎は「植物類をたきこみもしなかった。ただ、砂糖で味をつけた、おかゆであった。あまりおいしくもない」(『私の食物誌』岩波書店)ので、一杯で「ごめんをこうむった」と振り返っている。