上官の体罰惨めさ募る 松本の小林清さん、兵器学校で理不尽な日々

集合時間に少しでも遅れたり、点呼で確認される際に軍服の襟布や靴下が汚れていたりすると「陛下からいただいたものをなんと心得る」という怒声とともに、顎を突かれた。中には「お母さん」と泣く人もいた。昭和19(1944)年。松本市神田1の小林清さん(97)は、18歳で入った陸軍兵器学校での日々が記憶に残っている。
内心では「死にたくない」と思っていた。だが、兵に志願することが当然と学校の先生に教えられた。「そういう教育を受けていたので、志願は当然のことだと思っていた」。
ひたすら勉強の毎日を送った兵器学校では、理不尽な思いをした。文字に書いて覚えることが一切許されず、鼻をかんだ紙すら上官が広げて確認していた。黒板に書かれた問題に答えられないと、竹の棒で頭をたたかれた。試験前は、静かに勉強できるトイレにこもる人が多かった。
襟布などは洗濯をして外に干しても盗まれてしまうため、支給された布団を重ねて間に洗濯物を挟み、また布団を載せて寝転がって乾かしていた。
入学して1年ほどたってから、浜松の陸軍第2技術研究所に派遣された。陸軍兵器学校に入校した300人のうち20人が配属された。
熱源に向かって飛ぶ長距離爆弾の研究に当たった。
勉強の日々を送りつつ、研究所の近くにあった特攻隊の宿舎から飛行場に向かう隊員を見送っていた。日の丸の鉢巻きを頭に巻いた隊員たちが、包帯を巻き付けた刀を手に真っ青な顔をしていたことが印象に残る。
軍の学校での生活を「惨めだった」と振り返る。それは同世代の人々も同じだった。終戦後、海軍飛行予科練習生だった友人に会えたが、見せてもらった背中は竹刀でたたかれて傷だらけだった。
昭和20年8月。終戦が分かった時は、派遣された研究員20人で「生きて家に帰れる」と安堵の涙を流した。小林さんは「自分は運が良かった」と語る。 終戦後はさらに勉強を重ね技術の資格を取得し、86歳まで電気の技術者として働いた。軍の学校生活を反面教師に、人の役に立つ人間であろうと思いを持ち続け、電気の保守管理の仕事を無事故で勤め上げた。