連載・特集

2024.07.29 みすず野

 顔を合わせた人が、どこかで会ったことがあるのは間違いない。それなのに、どういう人で、何という名前なのかさっぱり思い出せない。「どなたでしたでしょうか」と尋ねると「おまえのおやじだ」というのは落語のマクラ◆作家の井伏鱒二さんは、富士見町の井戸尻遺跡を訪ね、理容店で散髪後、駅前の食堂でコップ酒を飲んだ。3杯目を手にしたところへ、地元の人らしい老人と青年の二人連れが入ってきて隣に座る。老人が「唐木順三先生ではないか」といい、お近づきのしるしにと酒を勧められる◆人違いだと言ったが、その時には酒がなみなみつがれていた。唐木順三は旧制松本中学、旧制松本高校出身で、古田晁、臼井吉見と筑摩書房を設立、顧問に就いた。戦後は大学教授を務め日本芸術院賞などを受賞した◆「本当の唐木さんは私と違って背が高く学者面だから顔が長い。年の半分はこの駅の裏山にある家で執筆生活をしてゐるが、謹厳な人だから外に出てコップ酒を飲むやうな人ではない」(『おしまいのページで』文藝春秋)。2時間ほど「唐木先生」でいたが、無駄口などきけないのでちょっとつらい酒だったそうだ。