連載・特集

2023.8.21 みすず野

 〈日本山岳史上、最大のハプニング〉は―現在の上高地帝国ホテルが開業した翌年―昭和9(1934)年8月21日に明神池で起きた。〈オカミさん事件〉と言い伝えられる(牛丸工さん著『内野常次郎小伝―上高地の常さん』)◆秩父宮妃殿下を「オカミさん」と呼んだのだから、大変だ。時は戦前。昭和天皇の弟宮のきさきである。お付きの人たちのうろたえぶりを松本出身の作家・山本茂実さんが『喜作新道』に〈この男は少しバカでございますから...〉と書いている。宮様の〈常さん、オカミさんでよろしい!〉の一声に一堂は胸をなで下ろす◆ウォルター・ウェストンと上条嘉門次の出会いに始まって、数々の登山家や芸術家―例えば高村光太郎に窪田空穂、近くだと『氷壁』の井上靖など―が上高地の名を広めた。もちろん人々の足を向けさせたのは山岳と清流がつくる景観だが、さまざまな人生があったことも語り継ぎたい◆偉業を成し遂げたわけではないけれど、伝わる無欲と天衣無縫の人柄から一服の清涼をもらう。常さんは〈少しバカ〉どころか、山本さんと牛丸さんも書いておられるように〈上高地の大恩人〉である。