連載・特集

2023.6.5 みすず野

 〈吾輩は猫である。名前はまだ無い。〉から〈種族であったそうだ。〉まで、書き出しの五つの文末に同じ形が一つもない。『文章作法事典』(講談社学術文庫)に教わった◆三つめを「見当がつかない」とせず〈つかぬ〉としたのは、前の〈無い〉と同じ音の響きが我慢できなかったから―著者の中村明さんはこれを〈調子を大事にした〉漱石の美意識とし、文の末尾に引っかけて〈足もとのおしゃれ〉と呼ぶ◆とかく効率が求められる世情だ。経済活動で無駄を省く努力は確かに大切だが、肝心の顧客がなおざりになっていないか。こだわりが過ぎるあまり(当方の作文みたいに)ちっとも先へ進まないのは困るけれど、一方で推敲に当たる過程も大事にしようと思った。髪形や襟元...〈おしゃれ〉のポイントはいろいろあるが、気配りを〈足もと〉へと向ける余裕も欲しい◆もちろん中村さんは「文末を変えればいい」と言っているのではなく、例示された武者小路実篤の文は「た」止めの連続がリズムをつくる。味わいを醸しだす。凡人の当方が名文から学べるとしたら、つまるところは読みやすさへの配慮ということになるだろう。