地域の話題

戦地の父を支えた1枚の写真 豊科・下田さん、戦争を語る

拡大複製した写真を見ながら中国に出兵した父親との思い出を話す下田さん

 安曇野市豊科高家の下田忠壽さん(88)は、昭和9(1934)年以降3回にわたって中国に出征した父・森蔵さん(故人)が、戦地から持ち帰った写真を大切に保管している。故郷の様子を伝えるため旧高家村の在郷軍人会が戦地の森蔵さんに慰問品として送った写真で、そのうちの1枚にはまだ小さい忠壽さんと母・富恵さん(故人)が、勤労奉仕で稲刈りに来た中学生6人と写っている。下田さんは「おやじが苦労してきた証し。大事に残したい」と話す。

 森蔵さんは明治42(1909)年生まれで、昭和5年1月に松本歩兵第50連隊に入隊し、満州事変などで中国大陸に3回、出征した。太平洋戦争が終わった20年8月は金沢で山砲兵として従事しており、翌月に帰宅した。
 下田さんと富恵さん、勤労奉仕の中学生が写っている写真は昭和17年10月に撮影された。13年に勤労奉仕で田んぼの雑草取りをしている写真や、14年に地元の高家小学校生が稲の苗の害虫駆除をしている写真もある。森蔵さんの死後、マラリア罹患証明書などと一緒に風呂敷で包んであった。下田さんが戦地の森蔵さんに送ったはがきも一緒に見つかった。
 森蔵さんは出征に関してあまり話さなかったが、戦後に農作業で同年代の人たちと集まった際には話題に上がっていた。「戦地で斥候に出た時に敵に囲まれたがうまく逃げた」などと聞いた。「鉄砲の弾が耳元をかすって『ピューン』という音を聞いた。運が良かった」と話す場面も見かけたことがある。
 下田さんは写真を撮った時の記憶はないが、戦時中に地元の神社に集まって出兵する人を見送ったり、遺骨で帰ってきた人を出迎えたりしたことは覚えている。森蔵さんが持ち帰った写真を見てもらおうと、拡大複製した写真を市内で6月に開いた個展で展示した。写真を見ながら「戦争をすると犠牲になるのは住民だけ。なんで戦争をしてはいけないのか考えないといけない」と言い聞かせるように語った。