連載・特集

2023.9.10みすず野

 米国の作家、アーネスト・ヘミングウエーの初期の短編に「身を横たえて」がある。戦場で砲弾に吹き飛ばされた「ぼく」は、眠くなると魂が体から遊離してしまう様子を感じてから、それを防ぐために子どものころ釣りに行ったマスのすむ川を思い浮かべ「その流れの全域を丹念に釣ってゆく」(『ヘミングウェイ全短編1』高見浩訳、新潮文庫)◆「一晩のうちに、四つか五つの川で釣ることもあった。最初になるべく水源に近いところまでさかのぼり、そこからスタートして徐々に釣り下ってくるのだ」。文芸評論家でエッセイストの湯川豊さんは著書『約束の川』(ヤマケイ文庫)で「このあまり知られていない短篇を、ヘミングウェイの釣りの文章のなかでも最も美しいもの」と思うと◆渓流の釣り場を多くは知らない。さおを手に川沿いに山を登ったこともあった。もうそんな体力はない。数が少ない分、釣り場の様子は細かく思い出せる◆足を延ばして木曽川を橋の上から眺めた。アマゴが数匹流れにいる。日の光が水底に届いている。カワセミが飛び出した。そこには、目を閉じて何度でも思い出したくなるような風景があった。