連載・特集

2023.8.29 みすず野

 作家の三浦哲郎に『師・井伏鱒二の思い出』(新潮社)がある。文壇での立場の違いも年齢差も程がよい。初めて荻窪の師家を訪ねたとき三浦は早稲田大学の学生だから、還暦近い重鎮を前に緊張で汗だくだった◆大学に毎日きちんと出ているかを心配したり、臼井吉見が三浦の作品を褒め、その後押しもあって文学賞に選ばれたことを喜んだり。酒場へは連れていかなかった。もしかしたら井伏の頭の中にかつて散々手を焼かされた、太宰治の存在があったのではなかろうか◆思うように書けない弟子へ師は〈急ぐ人がいたら、道を空けてやるさ。お先にどうぞ、だよ〉と温かい。片や〈一語も聞きもらすまい〉と耳をそばだてる弟子は〈滝に打たれるようなつもりで〉師の元へ通う。こうした交わりは身近にもきっとあるだろう。もしも崩れているとしたら―師の力が弱まったか、弟子が尊大になったか。どちらかだ◆三浦は郷里の青森に取材旅行の井伏を迎えた。共に肥満気味の師と編集者に挟まれ、蒸し暑い車内で汗だくになる。宿の主人が井伏に頼んだ色紙をのぞくと、こう書かれていた。〈わたしは平凡な言葉を好きになりたい〉