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死を覚悟した米軍の爆弾 海軍で対潜哨戒任務・筑北の滝澤喜幸さん

記念写真や肖像写真を見ながら戦争当時を振り返る滝澤さん

 筑北村坂井古司の滝澤喜幸さん(102)は、太平洋戦争の戦局が悪化してきた昭和18(1943)年に徴兵で海軍へ配属され、主に艦艇から潜水艦を音で探る対潜哨戒任務に従事した。乗った船は辛くも沈没を免れたが、戦闘時に米軍機から落とされた爆弾のごう音に死を覚悟したという。「年を取って記憶もだいぶおぼろげだ」と語るも、自身の経験から戦争のない世の中を願う強い思いを変わらずに抱き続けている。

 滝澤さんは、地元の坂井小学校を卒業後、現金収入を求めて岡谷の製糸工場で住み込みで働いていた。農家の4人兄弟の長男だったが、弟たちがまだ幼かったため徴兵された。「あの頃は『兵隊になれなければ男として恥ずかしい』という価値観もあった」。と振り返る。
 滝澤さんは耳が良かったこともあり、海軍では機雷学校へ入校して技術を修め、その後は巡洋艦や駆逐艦へ乗船した。学校では同年代の仲間と切磋琢磨する楽しさも味わった。
 戦闘に遭遇したのはフィリピン方面の海域で駆逐艦に乗船した時だ。薄暗い船内で海中の怪しい音を警戒する中、聴こえたのは海に落ちた爆弾の激しい破裂音だった。「ひたすら音を拾いながら『こんな小さな船じゃ爆弾を1、2発食らえばすぐ沈むんだろう』と頭をよぎった」と振り返る。
 20年に横須賀(神奈川県)の基地へ転属し、陸上から潜水艦を警戒するうちに終戦を迎えたという。戦後は帰郷して兼業農家となり国鉄に25年間勤めた。
 滝澤さんは「自分は乗った船が沈まなかったので運が良かった。だが多くの仲間が死んだ」とポツリと語り、「誰も好きこのんで死にたいとは思わない。どんな世の中でも戦争はあっちゃならない」と力を込めた。