戦闘機のない世界を願う 特攻を覚悟した池田の師岡昭二さん(98)
軍への入隊も、特攻兵への覚悟も、ためらいはなかった。「日本が勝つと思っていた。国のために命を懸けようと、死に対する恐怖もなかった」。しかし、戦闘機に乗って空を飛ぶことを夢見たかつての少年は戦後、戦闘機のない世界を願うようになった。
池田町の元町長・師岡昭二さん(98)=池田町会染渋田見。昭和2(1927)年に旧会染村(現池田町)に生まれ、松本工業学校(現松本工業高校)を卒業後、東京芝浦電気への就職を経て陸軍特別幹部候補生に志願した。時は太平洋戦争真っただ中。「戦闘機に乗りたい」という思いがあった。
昭和19年8月、滋賀県八日市町の第八航空教育隊に入隊した。同期は皆、大陸や南洋に出兵したが、後輩の教育を任され国に残った。20年5月に兵庫県淡路島の陸軍由良飛行場に転属。赴任前には封筒に頭髪を入れ、氏名と本籍を添えた。どこかで戦死することがあれば遺骨代わりに―との思いがあったという。
田園地帯に造られた由良飛行場は、特攻機の中継地だった。師岡さんも機体の整備に従事し、九州に向かう特攻兵を何度も見送った。自らも飛行訓練に憧れ続けたが、戦況は悪化の一途をたどり、十分な機体の確保はままならなかった。再び第八教育隊に帰参。飛行不能になった軽爆撃機を整備しながら「これを直して俺も特攻に」と心を決めていたが8月、終戦を迎えた。「あの飛行機が飛べりゃあ出陣して、生きてはいなかったろう」
しばらくは敗戦を認められず、米軍の襲来に備えて靴を履き、銃を脇に置いて毎晩床に就いた。しかし20年9月に帰郷。この戦争でシベリアに抑留された兄やその家族を失った。
戦後の転機は、特攻隊として出撃して戦死した同郷の上原良司(1922~45)を知ったことだった。師岡さんよりも五つ年上。生前面識はなかったが、権力主義や全体主義が「必ずや最後には敗れる」という信念や「自由の勝利」の確信を書き残した良司の「所感」を知り、衝撃を受けた。「検閲の厳しかった時代にこういう思想を貫いた人がいたのか」
平成17(2005)年、仲間と共に「上原良司の碑を造る会(現上原良司の灯を守る会)」を立ち上げた。以来20年にわたって、自由と平和のメッセージを発信し続ける。「戦争は絶対だめ。その思いを若い世代につないでいきたい」
