豊科の籏本つた子さん 兵隊さんに届けた握り飯 当時は小学生 「お役に立てた」と誇らしく
「ありがとうございます」。太平洋戦争の末期、その兵隊は丁寧な口調でそう言い、当時小学生だった籏本つた子さん(87)=安曇野市豊科南穂高=がにぎったおむすびを受け取ってくれた。「子ども心に、お国のために戦う兵隊さんのお役に立てたんだと本当にうれしく誇らしかった」と振り返る。
昭和20(1945)年、籏本さんが松川村の松川国民学校1年生だった冬の夜。「トントン」と自宅の戸をたたく音がした。母が応対すると「何でもいいので食べられる物をいただけませんか」と、戦闘帽をかぶった兵隊が立っていた。川向こうの松林で毎夜、銃声が響いていたから、演習をしている兵隊さんだろうと想像した。母は「こんな物しかなくてすみません」と何かを包んで手渡し、それ以来、ご飯を多めに炊くようになった。農家だったので米があり、その後も何度か訪ねて来た。
いつしか、兵隊がぱったりと来なくなった。「おなかをすかせて困っているかもしれない」。籏本さんは急いで学校から帰ると、かまどで米を炊いておむすびを握り、たくわん漬けと一緒にタケノコの皮で包んでかごに入れた。松林へと友人と行き「兵隊さーん」と呼ぶが姿は見えない。怖くて心臓が張り裂けそうに痛かったのを覚えている。そのうちに隊員が現れ「上等兵殿」と言って松林の奥へ走り、すぐにかごを空にして戻ってきた。お礼の言葉とともに、子どもだった籏本さんにも敬礼をしてくれた。
当時、学校の校舎では陸軍松本歩兵第五十連隊の部隊がおり、戦時体制下を共に過ごしていた。籏本さんら児童たちは登校すると、校門前の兵隊に敬礼、戦没者をまつった忠霊塔と奉安殿に拝礼、宮城の写真に向かって深く頭を下げて教室に入った。いとこと叔父も戦地に赴いていたから、役に立ちたい思いがあった。
戦争は日常だったから、国のために皆で我慢強く生きた。籏本さんは高校生になった頃、あの時の兵隊が五十連隊の所属だと知った。あの松林で訓練した若者たちはどんな思いで過ごしていたのだろう。当時を知る同級生もわずかだが、冬にもがり笛が聞こえるとあの頃を思い出すとともに、平和の尊さをありがたく感じる。「どんな理由でも戦争をしてはいけない。命あってのこと。世界中が一つの国になり、戦争がなくなればいい」。そう強く願う。




