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2025年

原爆投下後の長崎で被爆者救援 松本の中島学さん「地獄のようだった」

2025/08/10
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 松本市会田の会社役員・中島学さん(95)は、長崎市への原子爆弾(原爆)投下を、20キロほど離れた場所から目の当たりにした。昭和20(1945)年8月9日、長崎上空の米軍機からパラシュートが投下されるのが見え、間もなく、紫色の閃光と稲光が十数秒続き、きのこ雲が空高く上がった。同時に、中島さんは「はらわたをえぐられるようなものすごい爆発音がした」と振り返る。
 当時、中島さんは長崎県大村市にあった海軍航空隊に、15歳で戦闘機の搭乗員として配属されていた。出身は中川村(現松本市中川、四賀地区)。中高等教育を受ける経済的余裕のない農家の次男として生まれた。成長するにつれ、学ぶ意欲を人一倍に持ち、海軍の中堅幹部への道が開ける特別年少兵に14歳で合格し、厳しい養成課程を経て戦闘機の搭乗員となった。
 原爆投下時、経験のない状況に緊張感が高まった。航空隊の拠点だった飛行場周辺の竹を切って、即席の担架をできるだけ作り、列車で長崎に向かった。途中、鉄の線路があめ細工のように、ぐにゃりと曲がっていた。列車を降り、歩いて長崎市街に入ると「焼死体のあまりの多さに言葉を失った」。
 キリスト教会・大浦天主堂周辺で生存者の救援活動に当たった。がれきの山の中から「助けてくれ」と、か細い声が聞こえると、必死にがれきを取り除き、埋もれていた人を救出した。救出すると誰もが「水をくれ」と求めたのを覚えている。一帯の惨状に「地獄を見たことはないが、これが地獄なのかもしれないと思った」。
 戦闘機の搭乗員として配属された後、大村では特攻訓練が行われていると知った。初の実践は、四国・松山を空襲する米軍機の迎撃だった。習熟訓練を始めたころで、上官が操縦する戦闘機・紫電改に搭乗して向かった。米軍機と相対し、敵から放たれた弾丸が体をかすめ、左手と頭に大けがをした。その時の傷は80年たった今も心と体に残り、癒えることはない。
 中島さんは「あの様子(原爆の被害)を見た者であれば、絶対に核兵器は許さないはずだ」と語気を強め、決して癒えることのない傷を負う戦争がなくなることを願う。

当時のことを話す中島さん
長崎市の地図を見ながら、原爆が投下された当時のことを話す中島さん