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2025年

ソウルで迎えた終戦 塩尻の小野さん、戦争を語る

2025/08/09
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 終戦は、現在の韓国・ソウルで知った。昭和20(1945)年8月15日。11歳になったばかりだった。兵器の管理や調達に当たる技術職の陸軍士官として、現地の司令部で勤務した父と家族で暮らしていた官舎で、ラジオ放送を聞いた。おそらく母だったと思う。「日本は戦争に負けたんだよ」と教えてくれた。

家族の写真を見る小野さん

 塩尻市北小野の小野昭子さん(91)がソウルに暮らしていたのは昭和17年9月から。新築の官舎は戦時中ということもあって簡素な二軒長屋だったが、座敷や現地の暖房装置・オンドルを備えていた。学校にはプールがあり、トイレは水洗だった。父母ともに出身は松本。「田舎から出て行った女の子としては、カルチャーショックを受けた」と言う。
 父は、立場によって人を分け隔てすることがなかった。部下も、付き合いは浅かったが軍属の現地の人たちも官舎を訪ねてきた。「取って来たウナギをかば焼きにして、座敷でみんなで食べた記憶がある」。恵まれた境遇だったと思う。ソウルでの暮らしは、少女にとって平穏に続いた。
 終戦がそんな生活を終わらせた。混乱と、大きく変わった日本の立場と。母と3月に生まれたばかりの弟、現地で幼くして病没したもう一人の弟の遺骨と共に、日本を目指した引き揚げを「行きは一等車だったが、帰りは無蓋車だった」と振り返る。
 現地で残務整理に当たった父も、少し遅れて無事に復員した。公職追放を受けたが、再就職の誘いはいくつかあったようだ。しかし、遠地での勤務で、単身赴任か家族そろって松本を離れるかの決断を迫られる。戦時中、任務で家を空けることも多かった父を見ていた母が「もう離れたくない」と反対した。
 戦後、父母は農業を営んだ。稲作から畜産に手を広げ、きょうだいに教育を与えてくれた。かなりの苦労はしていたと思うが「悲壮感はなかったし、希望を持っている家族だった」。父を慕うかつての同僚や部下が訪ねてきて、足りない物資をくれることもあった。
 あの頃を振り返ると「私に苦労はなかったが、戦争体験はある。父は、生きるか死ぬかの体験をした」という考えが浮かぶ。穏やかだった戦後の生活の土台に、80年間にわたって戦争がなかった日本があると思っている。

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