安曇野市の丸山貞夫さん保管の写真 戦没者合同葬儀を記録 戦時中に豊科で撮影 地元出身の6人弔う
2025/08/07
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安曇野市豊科の丸山貞夫さん(90)が戦時中に撮影された合同葬儀の写真を今も大切に保管している。豊科国民学校グラウンド(現在の豊科高校グラウンド)で大々的に営まれた、豊科町出身の戦没者を弔う葬儀で、祭壇には6人の遺骨箱と遺影が並ぶ。丸山さんは戦後80年の節目に戦時生活を振り返り「(こういう時代があったことを)今の子供たちに伝えたい」と語る。
丸山さんは10歳で終戦を迎えた。写真が撮影されたのは8~9歳の頃で、誰が撮影したのかは分からないという。豊科駅に遺骨が届いて遺族が歩いてグラウンドまで運んだ。丸山さんを含む参列者たちが頭を下げてそれを迎えたという。
国民学校の敷地には天皇陛下の写真や教育勅語などを納めた奉安殿があった。2月11日の紀元節や11月3日の明治節などには、モーニング姿の校長と教頭が白い手袋をはめて写真と教育勅語を取り出し、グラウンドの子供たちも運動をやめて最敬礼で見守った。講堂で校長が教育勅語を奉読し、子供たちは直立不動で聞いた。丸山さんは今でも教育勅語の出だし部分をそらんじることができる。
教科書は教師の指示で「日本に都合の悪い部分」は墨で黒く塗りつぶした。竹やりで米兵を突き刺す訓練もした。丸山さんは「今から思えばばかなことだね」と振り返る。
自宅には防空壕が掘られた。空襲警報が鳴り、先祖代々の位はいと梅干しを抱えて逃げ込んだ。梅干しは、防空壕の中で飢えをしのげるようにとの考えだった。空襲を避けるため、道路には水をまいて黒っぽくした。道だと分かれば両側に家があり、爆撃で狙われる―との考えからだったという。登下校も集団は避けてあぜ道などを使った。丸山さんは「そんな戦争時代だった。戦争はいかに恐ろしかったか」と80年が過ぎる今も鮮明な記憶として焼き付いている。
