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2025年

家族の命を奪った戦争 松本の洞光寺前住職・松本諦念さん語る

2025/12/16
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 戦争は、家族の命をいくつも奪っていった―。松本市刈谷原町(四賀地区)の洞光寺前住職・松本諦念さん(91)は、太平洋戦争中に満蒙開拓団として満州(現在の中国東北部)に渡り、父母と相次ぎ死別したほか、日本に残った姉も空襲で亡くした。戦争孤児として生き、仏道を歩んできた半生を振り返りながら「相手を思いやる目には見えない力、徳こそが世の中を平和へと導ける」と力を込める。
 6人きょうだいの末っ子として昭和9(1934)年に鳥取県に生まれ、16年春に「徳勝鳥取開拓団」として満州の磐石県に渡った。下関を出航し、朝鮮半島にたどりついてから列車や馬車で移動する長旅。「ずいぶん遠くに行くんだなぁ」と幼心に思った日をおぼろ気に覚えている。
 入植地では土塀に囲まれた集落で土れんがの家に暮らした。トウモロコシや大豆さえ供出すれば、米やスイカを自由に作ることができたという。冬は氷点下30度まで冷え込む厳しい環境だが、不自由を感じることはなかった。ただ後年になって「開拓とは名ばかりだった」と思うように。暮らした集落も畑も、元は現地住民たちのもの。「今考えれば略奪だった」と振り返る。
 戦況の悪化に伴い長兄や次兄は出征し、後にシベリアに抑留された。日本に残り、軍需工場で働くなどしていた姉は、大阪の空襲で命を落とした。
 迎えた20年8月。敗戦を受け、年の近い2人の兄や両親と逃避行が始まった。トウモロコシ畑の中を駆け、追いはぎに遭うなどしながらも撫順に到着。炭鉱の寮に入ることができたが、厳しい飢えや寒さで「あっちでもこっちでも人が死んでいった」。21年2月に栄養失調だった母が死去。兄がおこした火で凍土をわずかに溶かし、亡きがらにかけるのが精いっぱいだった。翌3月には父も亡くなったが、発疹チフスで病床にいた松本さんは死に目に会えなかった。
 兄弟3人で貨物船に乗り込み、21年夏に博多港に到着した。列車で故郷に戻る途中、広島の街が一面焼け野原だったことを忘れない。鳥取に戻った後は兄たちと離れ、15歳で大工見習いに。成人後、神社仏閣の彫刻師に弟子入りするなどした後、縁あって仏門に入った。
 仏教が説く徳は「生かされていることに報いることであり思いやり。相手が幸せになるお手伝いができれば徳は積める」と話す。人も国家も徳を求めた先にある平和を願った。

80年前を振り返る松本さん