死を覚悟した予科練での日々 玉音放送を聞き複雑な思いに 松本の花岡博茂さん
2025/08/15
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松本市里山辺の花岡博茂さん(97)は昭和20(1945)年3月、16歳の時に海軍飛行予科練習生(予科練)となり、奈良海軍航空隊(現奈良県天理市)に入った。8人きょうだいの次男。「志願してでもいく気持ちがあった」と振り返る。
予科練では飛行場整備のための資材運搬に従事し、荷車を3~4人で引っ張ったり、押したりした。銃を使った訓練や軍事に関する勉強に取り組み、厳しい日々だった。飛行機乗りへ歩むはずが、「飛行機には触りもしなかった」。戦況は分からず、戦況を考える余裕もなかった。
予科練の前は、故郷の松本を離れて東京にあった陸軍関係の軍事工場で働いた。通信用だったのか、発電機を作っていて、時々兵隊が来た。工場で3年過ごした。
予科練の先輩たちは片道だけの燃料を飛行機に入れて航空母艦に突っ込むために飛んでいった。死にいくことを覚悟していた。そういう時代だった。
戦地で実戦に関わることなく終戦を迎えた。玉音放送を聞いた時は、諦めや、残念な気持ちになった。「第二の人生の始まりか」とも思った。戦時中は戦争一色、その日暮らしだった。先のことを考えることはできなかった。
終戦から80年を迎えた今年、世界を見渡せば、ウクライナやパレスチナなど各地で争いがあり、戦禍にさらされる人々がいる。「戦争なんて最悪のことをしている。平和であってもらいたい」。
