0000日(木)
2025年

穂高有明の田谷修一さん 広島の原爆雲を目撃 海軍練習生時代に呉から ピンク色で細く上がる

2025/08/09
後で読む

 広島市に原子爆弾が投下された昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、日本海軍の練習生だった田谷修一さん(97)=安曇野市穂高有明=は、広島県呉市郷原の練習場で北の空を見上げた。ピンク色の細い雲が上っていく。朝早くから訓練のために集まっていた隊員たちは、黙ってそれを見ていた。
 広島県豊田郡の出身で、7人きょうだいの長男として農家に生まれた。美術学校に進学することを目指していたが、父に「絵描きになるなら軍隊で死んだ方がいい」と言われて海軍に志願した。
 練習場があった郷原から原爆が投下された広島市の中心部までは直線距離で約20キロ離れている。もくもくとしたきのこ雲ではなかった。音も聞こえなかった。教班長が「火薬庫が爆発したのではないか」と言ったので驚いた。雲の下にいる人たちを想像し、「真っ黒焦げになっているのではないか。地獄に見えた」と振り返る。
 呉市海軍歴史科学館大和ミュージアムによると、原爆で発生したきのこ雲の色は「ピンク色だった」という表現がある。形については見たタイミングや場所で見え方が異なるため「一般的なきのこ雲のイメージと異なる可能性はある。見え方にはいろいろなケースがあった」とする。
 終戦を迎え「うれしかった。これで絵を描く学校に行けると思った」。20歳を過ぎて東京の美術学校に入学し、画家となって展覧会に出品したり画家では食べていけないためトラック運転手をしたりした。原爆投下後に降った雨の影響からか、雨が当たった腕に白い斑点ができて何年も残った。義母が安曇野出身だった縁で約20年前に移住した。
 戦後80年。戦争や平和を問われ「平和が一番いい。戦争はあってはいけない。人間が好むんですかね、戦争というものを。私の頭では分かりませんけれども」と、静かに、穏やかに語っていた。

原爆の雲を見た田谷さん。手にしているのは美術学校時代に自作した木像

おでかけ

一覧を見る