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2025年

長嶋茂雄さん死去 「ミスタープロ野球」を悼む声広がる

2025/06/04
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 プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として活躍し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄さんの訃報を受け、中信地区の熱烈なファンや、長嶋さんの母校・立教大学の野球部OBなどから感謝や惜しむ声が聞かれた。

 県高校野球OB・OG連盟の会長を務める立教大学野球部OBの池口良明さん(73)=松本市惣社=が「神様以上の存在」と語る長嶋さんと初めて会ったのは大学1年の時。神宮球場のロッカールームで愚痴をこぼしながら先輩のスパイクを磨いていたところ、突然ドアが開き、プロ野球の試合のために長嶋さんが入ってきて「全員直立不動になった」。
 4年生の時には長嶋さんの引退セレモニーが大学で行われ、同じ壇上に上がった。「前日から緊張で食事が喉を通らず、興奮して鼻血が出そうになった」といい、他の選手が長嶋さんと片手で握手をしていく中、無我夢中で両手で握手した。
 長嶋さんが全身から発するはつらつとしたエネルギーが人々を引きつけたと振り返り、「野球が日本に広まったのは長嶋さんのおかげ」と感謝した。

 松商学園高校(松本市)の軟式野球部OBの土橋伊久雄さん(89)=松本市本庄2=は、高校3年生の時に立教大学野球部のセレクションを受けた際、同じ三塁手として長嶋さんと競った。「打撃の長打力と技術が並外れていて、打球を何本もスタンドに放り込んでいた。とにかく真面目で頭の回転が速い選手だった」と印象を振り返る。土橋さんは選外となり、一般入試で立教大に入学したが、神宮球場が満員になった当時の大学野球の盛り上がりを懐かしんだ。
 長嶋さんが巨人入団後は後楽園球場に何度も足を運び応援した。訃報に涙がこぼれたといい、「今年で90歳の節目だったし、元気な同期も少ないので一層寂しい。プロ野球を国民的スポーツに押し上げた立役者だった」としのんだ。

 長嶋さんに憧れて小学生から野球を始め、立教大学野球部で活躍した塩尻市議会議員の平間正治さん(71)=塩尻市大門田川町=は、野球部寮の大広間に掲げられていた長嶋さんの木製の名札を「野球の神様のお宝」と大切に保管している。
 平間さんが現役部員だった当時の監督が歴代部員の名札をプラスチック製に一新した際に、外された名札をマネジャーの許可を得て持ち帰った。長嶋さんが講演のため大学を訪れた際には会場で野球部員が手をつないで通路を確保し、目の前を通り過ぎる姿に「オーラがすごかった。光り輝いていた」と興奮したことを覚えている。
 長嶋さんが脳梗塞後もリハビリを重ね人前に立ち続けた姿に尊敬の念を示し、「天賦の才と努力を持ち合わせた人。ああいう人はもう出てこないのではないか」と悼んだ。

 塩尻市広丘郷原の農業・臼井正明さん(76)は、長嶋さんと50年以上にわたって交流を続けてきた。毎年、季節の農産物を送るとお礼が届き、「誰よりもファンを大切にする方だった。最高の笑顔はいつまでも忘れない」と話す。
 V9初年の昭和40(1965)年、高校1年生だった臼井さんは県営松本野球場で巨人-南海の秋季オープン戦を観戦した。野球部の先輩に「写真を撮ってこい」とグラウンドに突き落とされ、ドキドキしながらベンチにいた長嶋さんに近づくと、「君はここにいていいのー」と言いながらも快く撮らせてくれた。そこから熱烈な長嶋ファンになった。
 社会人になってからは後楽園球場に通い、春はリンゴ、秋はブドウなど地元の農産物を長嶋さんに送った。特にナイアガラは「家中がよい香りに。黄金のブドウ」と喜ばれた。
 長嶋さんからもらったものの中でも思い出深いのは、アテネ五輪日本代表のユニホームだ。脳梗塞で倒れた長嶋さんを心配して手紙を送ったところ、1年半ほどして自宅に呼ばれ、サイン入りのものを贈られた。地方の一ファンのことを忘れず、不自由な体でサインを書いてくれたことがうれしかった。
 訃報に触れ「この年まで野球に夢中にさせてくれたのは長嶋さんのおかげ。長嶋さんは野球そのものだった」と感謝を込めた。

※土橋さんの「土」は「土の右上に、」

高校生の時に臼井さんが撮った長嶋さんの写真や、贈られたユニホームなど