連載・特集

2021.9.14 みすず野

 昭和60(1985)年の秋だったと思う。玉井袈裟男先生の研究室は、信大教養部1階の薄暗い廊下を進んだ中ほどにあった。「玉井」と発泡スチロールで作った立体文字が表札代わり。柔和な丸顔の先生に「これから王滝村へ行くぞ」と言われ「王滝って、地震のですか?」と返した◆前年9月14日に村を襲った揺れは震度6と推定されている。29人の尊い命が失われた。御嶽山の山腹が崩れ、流れ下った土砂は氷ケ瀬の渓谷も埋めた。かつて斎藤茂吉も訪れ〈しぐれ降るなかに立てれば峡にして瀬の合ふ音は寂しかりけり〉と詠んだ景勝地である◆被災後の地域を考える講演か何かだったのだろう。能天気な運転手兼かばん持ちの学生は、話の中身を全く覚えていない。旅館の広間のような所で村民たちと先生が熱く語り合っている映像が頭に残るのみだ。議論は深夜に及び、その場で雑魚寝となった。若き日の瀬戸普村長が輪の中におられたかもしれない◆村議会で今期限りでの引退を表明された。赤信号のともった村財政を立て直し、噴火災害からの復興に道筋を付けた。村づくりに懸ける熱い思いは次の世代へと受け継がれていく。