連載・特集

2021.4.3 みすず野

 太宰治の掌編「春昼」は穏やかな花見のお手本のよう。〈四月十一日〉と書き起こす。〈私〉は家内と妹を連れて武田神社へ行く。現実の太宰は昭和14年に井伏鱒二の媒酌で結婚し、しばらく甲府に住んだ。〈桜は、こぼれるやうに咲いてゐた〉◆大祭の前日で〈塵一つとどめず掃き清められ〉た境内に、3人の屈託のない笑い声が響く。花の匂いよりも先に〈あぶの羽音〉が聞こえてきた。新たな出発への思いや祈りを桜に託したのだろうか。太宰はこの年の「富嶽百景」に続き翌年「走れメロス」を書いた◆松本市街を見下ろす城山公園の桜は、はや満開だった。江戸後期の戸田光庸治世に桜やカエデを植え、領民に開放したのが始まりとか。古典落語の「花見酒」で、ひともうけ企てた2人は売り物の酒を「もう一杯。それじゃ俺も」と飲み尽くしてしまう。盛りの花に重ねてそんな光景を想像するのも楽しい◆太宰が好きと言えば「青春のはしか」と笑われたり、彼女の家族に警戒されたり。でも、やっぱり心に染み入る。太宰の術中にはまる。昨年は花見をしたっけ?虫の羽音を聞くほどでなくても、今年は心静かに桜をめでたい。