連載・特集

2020.10.24みすず野

 熊よけの鈴をうっかり忘れて山へ入り、熊に出くわしたことがある。子熊の後から(おそらく)母熊が幹を伝ってスルスルと下りてきた。長いにらみ合いの末に猛ダッシュで逃げる2頭を見送り、へなへなと膝が崩れ折れた◆母子の熊と読んで宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を思い浮かべた人もおられよう。お月さまの青白い光の下で母子が谷を眺め、語らう描写はクロモジの匂いも差して美しい。〈僕知ってるよ〉と言う小熊に母熊が〈いいえ、あれはひきざくらではありません、お前とって来たのきささげの花でしょう〉◆人里に熊の出没が相次ぐ。当地では人への被害も出た。山のドングリの実りも要因なのだろうが、そもそも獣と人間の境界を巡っては里山の荒廃や中山間地の過疎、狩猟者の減少といった背景が言われて久しい。緩衝帯を造ったり狩猟への関心を高めたり。地道な取り組みが続く◆賢治の作品からは全ての命をいとおしむ思いがひしひしと伝わる。熊も生きるのに懸命なのだ。「駆除」されたと聞くと心がちくちく痛む。山や山際では音を鳴らす。野菜や果物を家の外に置かない。人間ができる備えはしておきたい。