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堀金出身の特攻隊員・浅川又之の生涯たどる 穂高で日誌や手紙紹介する企画展

戦争企画展で展示する浅川又之の長文の手紙や日誌を見せる山田さん(左)と百瀬さん
 太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月に鹿児島の知覧基地から沖縄西海上の米艦隊に戦闘機で突入し、23歳で戦死した旧堀金村(現・安曇野市堀金烏川)出身の特攻隊員・浅川又之の生涯が、穂高交流学習センター・みらいで12~16日に開かれる戦争企画展で取り上げられる。郷土を愛する好青年が入隊後に特攻を志願し、恐れや迷いの言葉を残さず出撃していった人生の光と影を、日誌などから読み解く内容となっている。
 浅川は下堀の農家に生まれた。旧松本中学校(現・松本深志高)に進学、スポーツ万能の棒高跳びの選手で絵や作文も優秀だったという。東京高等蚕糸学校(現・東京農工大)を卒業後、松本に駐屯地があった陸軍歩兵第50連隊に入営、その後操縦士を志し陸軍飛行学校に入った。  日誌類には、日々の訓練内容を絵図を添えて事細かに記している。動作の鈍さを上官に怒られた日は「確かに身から出た錆だ。我々軍人は大いに団結し...」と自らを戒める言葉を残し、きちょうめんさがうかがえる。  一方で、故郷や家族への愛情の深さも文面に表れる。日誌には常念岳がよく登場し「常念岳は何よりの育ての親」との言葉もあった。出撃前には電報で家族を呼び寄せたのに、酒に酔って現れて無駄話をして別れ、後日送った面会のお礼の手紙で「面と向かって話ができず、なにやら合点のゆかぬ気持ちだった」などとつづっている。  安曇野ゆかりの特攻隊員では、戦没学徒の遺稿集『きけわだつみのこえ』で有名な上原良司がいるが、浅川には上原のような自由主義者の雰囲気はない。戦闘機前で仲間と撮った写真には、朗らかな笑顔の浅川の姿がある。  「郷土を守ることが愛国心につながった。それが笑顔の背景にあるのではないか」と展示を企画した豊科郷土博物館友の会戦時生活部の百瀬新治さん(69)は推察する。同じ会員で浅川のおい、山田和之さん(80)=豊科=は「又おじさんの心は、今もって理解できないところがある。ただ、米艦隊に突っ込んだのは紛れもない事実。その現実を多くの人に知ってほしい」と話している。  企画展は、約70点の関連資料が展示される。午前9時~午後5時(12日は午後1時開場、16日は午後1時閉場)。

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