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惨劇の記録松本地方にも 湯の花トンネル列車銃撃

 終戦間際の昭和20(1945)年8月5日、東京都南多摩郡浅川町(現八王子市)の旧国鉄中央本線を走行していた新宿発長野行き列車を米軍機が銃撃し、乗客52人以上が死亡した「湯の花トンネル列車銃撃事件」から今年で75年になる。列車には筑摩書房の創業者・古田晁(塩尻市出身)が乗車していたことが知られるほか、犠牲者の中には当時20歳だった東筑摩郡島立村(現松本市島立)の青年がいた。松本地方には今も関係の記録が残り、銃撃が遠い世界の出来事ではなかったことを伝えている。

 島立村の青年は大久保正次さん。7人きょうだいの長男として生まれ、記録によれば当時は陸軍の範三八二五部隊(近衛歩兵第九聯隊)に所属していた。
 75年前の8月5日正午すぎ、浅川駅(現高尾駅)を出発して湯の花トンネルにさしかかった超満員列車に、硫黄島より飛来した米軍機P51が機銃掃射を開始。40人近くが即死するなど辺りは血の海になったという。乗客だった正次さんも負傷し搬送中に亡くなった。
 大久保家を継いだ弟の長光さん(8年前に他界)の長男・秀成さん(59)の元には、今も断片的な記録が残る。同部隊が寄せた弔辞には「公務ノタメ某地に出張ノ途次...敵機ノ襲撃ニ遭遇」とある。島立村長経由の死亡報告には同年11月16日の日付があり当時の混乱をうかがわせる。
 長光さんは生前、兄の戦死について多くを語らなかったという。それでも「可能な限り現地で開かれる慰霊の集いに足を運んでいた。家族にも話せない複雑な思いがあったのだろう」と秀成さんはおもんぱかっている。

 古田晁は東大時代の友人で小説家の渋川驍の作品を出版するため原稿を携え、伊那の印刷所に向かう途中だった。原稿を膝の上に広げていたところ、突然の襲撃で弾を受けた男性乗客の鮮血が原稿の上に飛び散ったとされる。男性は即死。古田は九死に一生を得た。
 塩尻市の古田晁記念館によれば、原稿は古田の没後しばらく所在不明になっていたが、平成14(2002)年に発見され同市に寄贈された。現在記念館には「血染めの原稿」としてレプリカが展示されている。
 現物は劣化を防ぐ目的から、市立図書館が保管し一般には公開していない。75年を経て原稿を染めた鮮血は土気色に変色したが、今も生々しく戦争の爪痕を物語る。同館の上條史生館長は「戦時下に命懸けで言論や出版を守ろうとした古田の思いを象徴する資料」とし、当時を知る世代が減っても、記録や思いが引き継がれることを願った。

 このほか「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」(八王子市)によると、列車には松本市出身の書家・上條信山が乗車していた。自伝『硯上の塵』にそれを示唆する記述が見て取れる。

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