連載・特集

2020.3.29みすず野

 冬の上高地を初めて歩いたのは20年近く前だ。膝まで埋まる雪をつぼ足で踏み、徳沢の冬期小屋にたどり着いた。迎えてくれた火炉と小屋番の温かさを忘れない。静寂と景色にすっかり魅了され、翌年も翌々年も釜トンネルをくぐった◆高村光太郎の詩集『智恵子抄』にある「狂奔する牛」は大正2(1913)年夏の思い出だとか。徳沢に牧場があった。智恵子が牛の群れを怖がったのだろう。光太郎は〈今日はもう画くのを止して/この人跡たえた神苑をけがさぬほどに/又好きな焚火をしませう〉と声を掛ける◆徳沢の徳澤園に社長の上條敏昭さん(70)を訪ね、冬期小屋が5年前に閉じられたと聞いたのは昨夏だった。「気ままに文学散歩」の取材で井上靖の『氷壁』にまつわる話を伺った。そのとき草稿を見せてもらった『徳澤園135年史』が完成した。牧場時代からの歩みである◆絵の道具を持った智恵子が上高地にやって来る。光太郎は徳本峠を越えて岩魚止で迎えた。二人は翌年結婚する。〈智恵子は東京に空が無いといふ/ほんとの空が見たいといふ〉4月2日は光太郎が好んだというレンギョウの花にちなんで連翹忌。

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