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拾ケ堰と一九ひもとく 豊科の丸山英二さん

 江戸時代後期の戯作者・十返舎一九(1765~1831)が安曇野を訪れた際、農業用水路・拾ケ堰の誕生に重要な役割を果たした―。安曇野市民などでつくる「十返舎一九に親しむ会」の会長・丸山英二さん(79)=豊科=が、自説を冊子『拾ケ堰開削顛末記―序章』にまとめた。古文書や旧町史を丹念に調べ、戦国時代にさかのぼる水争いの歴史をひもといて、堰掘削に懸けた先人の思いまでも考察した労作だ。

 一九は文化11(1814)年、成相組(現・豊科成相)の大庄屋で狂歌仲間の藤森善兵衛宅を訪れた。丸山さんの説は「同じ狂歌会の仲間で拾ケ堰掘削を構想する保高組(現・穂高)の長百姓・中島輪兵衛が、一九に同行していた松本の書店主・高美甚左衛門に頼んで堰掘削の計画書を善兵衛に手渡した」という内容だ。
 拾ケ堰は、当時すでにあった矢原堰や勘左衛門堰の恩恵を受けられない保高組にとってこそ必要だったが、奈良井川から取水する堰筋の大半は成相組の土地を通っていて、藤森善兵衛の許可がないと実現できなかった。一方で、保高組と成相組は入会地を巡って100年にわたる水争いを続けており、普通に協力を申し出たのでは成功しそうもなかった。
 藤森家の始まりは善兵衛より7代前で、松本城を築城した石川数正・康長親子から安曇野の新田開発を依頼された藤森若狭にさかのぼる。満願寺への栗尾道を開道したり、松本藩から「御殿林」を賜ったりと、地域づくりを担ってきた家柄だった。丸山さんは「一九の前で、地域のためになる新堰掘削の依頼を断ることはできないだろうという目論見が、輪兵衛にあったのでは」と推察する。
 拾ケ堰は文化13年2月に着工し、3カ月後に完成した。保高組と成相組が協力して工事を始めた時に、100年続いた水争いも終わった。丸山さんは「先祖の姿から『小異を捨てて大同につく』ことの大切さが学べる」と話している。
 29日午前9時半から豊科交流学習センター・きぼうで、冊子を解説する会を開く。定員20人で参加無料。希望者には冊子(税込み500円)を頒布する。問い合わせは丸山さん(電話090・3585・7756)へ。

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