連載・特集

2020.1.27 みすず野

 「そのことを理解したとき、文四郎の胸にこみ上げて来たのは、自分でもおどろくほどにはげしい、ふくをいとおしむ感情だった。―」。時代小説家・藤沢周平の代表作『蝉しぐれ』の一文。何を意味しているかを説明する紙幅はないけれど◆『蝉しぐれ』一つ取っても、その物語は詩情豊かで、もの哀しくて、胸に迫ってくる。人生って本当にそうだ、短くてはかなくて、それゆえ愛おしいと。短編にはさらにそれがぎゅっと凝縮されている。最晩年の一編「静かな木」は、城下の寺に立つ欅の大木に心を寄せる、連れ合いに先立たれた隠居武士が主人公◆「―生きていれば、よいこともある。孫左衛門はごく平凡なことを思った。軽い風が吹き通り、青葉の欅はわずかに梢をゆすった。(後略)」で締めくくられる。藤沢自身の心情をつづっているに相違ない。江戸時代の武士も庶民も、現代に生きるわれわれと同じ人間、思うところは変わらない、そう言われている気もする◆平成9(1997)年のきのう、藤沢は69年の人生を終えた。丸谷才一は「明治大正昭和三代の時代小説を通じて、並ぶ者のない文章の名手」と称えた。

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