連載・特集

2019.9.15 みすず野

 槍沢の下りですれ違った60代くらいの女性3人組に「チワッ」と短くあいさつを返したら「あら、ヨーキさん?」「じゃないわね」とがっかりされた。おそらく田中陽希さんのことだろう。テレビ番組で全国の山を渡り歩く人気者だ◆気の毒だが、こちらはたくましい面構えの青年と似ても似つかない還暦手前のしがない新聞記者である。学生時代に初めて槍沢を詰めた。「顎が出るアルバイト」という言葉が実感を伴って脳裏に刻まれた。表銀座~東鎌尾根の道標をたどったのは40代で、それ以来の槍の穂先だった◆芥川龍之介が槍を旅したのは明治42(1909)年。芥川は果たして穂先に立ったのか―と学生の時も話題になった。11年後に発表した「槍ケ嶽紀行」に〈石鏃のやう〉な絶頂を眺めたと記すが、肝心の登頂の描写が一行もない。「登ったら書くだろう」「いや、そこが芥川らしさだ」◆徳本峠を越えて奥穂に登った昨年も確か「これが人生最後の北アルプスの稜線かも」と言った。笠ケ岳はこの方角か。山頂の天候は穏やかで、さほど混んでもなかったが、粘ってもガスが晴れそうにない。諦めて下りのはしごをつかんだ。