地域の話題

穂高空襲は「浜松」の一端 米軍記録を基に新解釈

 太平洋戦争末期の昭和20(1945)年5月19日、安曇野市の穂高地域で米軍機が爆撃を行い2人が亡くなった「穂高空襲」は、同じ日に浜松市に向かった米軍機のうちの1機によるものだった可能性が高い―。豊科の豊科郷土博物館で20日に開かれた戦争に関する講演会で、同館の原明芳館長が米軍の記録に基づき、新たな解釈を紹介した。

 同館友の会戦時生活部会が主催した講演会で、約20人が耳を傾けた。
 原館長によると、国立国会図書館(東京都)で公開されている米軍の記録では、浜松市の空襲に向けて309機のB29爆撃機が出撃し、うち1機が悪天候のため目標を変更して、レーダーを使わない「視認」で甲府市を爆撃したことになっている。浜松市と近郊では約450人が犠牲になった。
 ところがこの日、甲府市が爆撃されたという日本側の記録はない。穂高空襲についてはこれまで、本土決戦に備えた軍の部隊が穂高と有明の国民学校に駐屯していたため、学校を狙った爆撃との見方がされてきた。
 原館長は、B29の飛行ルートや移動時間、米軍記録の甲府市の爆撃と穂高空襲の時間がほぼ一致することから、米軍機が甲府ではなく穂高を爆撃した可能性を指摘し「穂高空襲は浜松空襲の一端だったとみられる」とした。「爆撃は機体を軽くして燃料を節約するため。なるべく被害を与えるために大きな建物(学校)を狙ったのではないか」と説明し「抵抗できない人たちが犠牲になる。今も昔も戦争は変わらない」と話していた。

連載・特集

もっと見る