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| 52.荻 原守衛(碌山) | |
![]() 魂刻み込んだ 最後の「女」 荻原守衛は、明治12(1879)年12月1日に、南安曇郡東穂高村矢原(安曇野市穂高)に末っ子の五男として生まれた。生家は自作兼小地主で、厩 (うまや)で馬を飼い、屋内は土間まで養蚕に使い、レンゲの種子の商売もしていた。守衛は、東穂高高等小学校を26年に卒業し、家業を手伝った。 守衛より9歳年上の相馬愛蔵が24年に作った東穂高禁酒会に、27年11月に入会した。31年に塾の研成義塾を創設した、東穂高村生まれの井口喜源治の 影響も守衛は強く受けた。 29年、16歳の春に守衛は心臓を病んだ。肉体労働は無理で農業以外の道を模索し、絵を描くようになった。キリスト教への関心も深め、内村鑑三の著作を 読んだ。翌30年の春、17歳の守衛は、相馬愛蔵と結婚し東穂高村に来ていた21歳の相馬良(黒光)に出会う。32年5月30日の日記に「桑摘みなす姉良 子の君と対話数刻、女学雑誌の事より、宗教上信仰の堅と否の事に付き談あり。アア才智(さいち)ある婦女子の会話は実に喜しきものなり」と守衛は記した。 守衛が20歳になる直前の32年10月、画家を志して東京に出て、本郷にある画塾に通った。33年7月には、上京した井口喜源治とともに内村鑑三の夏期 講談会に出席した。 守衛は、34年に帰郷し家族の了解を得て、3月14日に横浜港を出航、4月にニューヨークへ着いた。仕事も金もなく病気がちであった守衛は、苦労して美 術学校に学んだ。ニューヨークでの守衛は、ニューヨーク・アート・スクールにも通い、そこで画家の戸張狐雁を知った。 36年10月1日、守衛はアメリカからフランス・パリへ旅立った。パリのアカデミー・ジュリアンで学ぶこととなった。そこで、不同舎の先輩の中村不折 (高遠出身の画家、のちに書道にも精進)らと出会った。 37年5月、春のサロン展でロダンの彫刻作品「考える人」に守衛は出合い、深く感動、彫刻への志向を強めた。37年6月にアメリカに戻った守衛は、彫刻 を目指そうと人体のデッサンなどを学んだ。 39年9月5日、彫刻への夢を胸に秘めて、ニューヨークからパリに発(た)った。オランダに上陸、ベルギーにも寄り、10月早々にパリに着いた。守衛 は、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学し、彫刻に専念。校内のコンクールで優秀な成績を収めるようになった。 40年秋、ロダンを訪ねて、直接学んだ守衛は、その年の夏ころから「碌山」という呼び名を使うようになった。 パリのアカデミー・ジュリアンで学んだ40年暮れの碌山の「坑夫」を学校で見た親友高村光太郎は、その素晴らしさに驚き、どうしても日本に持ち帰るよう に勧めた。 明治40年12月、パリを発った28歳の碌山は、イタリアを旅し、ギリシャやエジプトも訪れて、翌年3月11日、神戸に着いた。まる7年ぶりの帰国だっ た。 東京から郷里に戻った碌山は、穂高で半月ほどをすごして、4月初めに上京した。アトリエができるまで、相馬愛蔵・良(黒光)の新宿の中村屋に世話になっ た。 帰国後最初の作品が「文覚」で、41年秋の文部省美術展覧会(文展)で入選した。 碌山は、新宿にできたアトリエで制作を続けた。相馬黒光との交流は続き、中村屋の仕事を手伝った。 42年春、「北条虎吉像」「労働者」などを制作。その年の秋の文展に出品した。「労働者」が不満だった碌山は、展覧会が終わるとこの作品の左手を切り取 り、ついで両足の膝から下を切り取った。 碌山の「女」は、彫刻として最後の作品となった。女性の悩みを象徴しており、「もがくようなその表情、しかも肢体は地上より離れ得ず、両の手を後方にま わしたなやましげな肢体は、単なる土の作品ではなく、私自身だと直観されるものがあった」と相馬黒光は後に書いている。 43年4月20日の夜、中村屋で吐血、22日、碌山は30歳5カ月の若さで亡くなった。 東穂高の生家の墓地に埋葬された。 碌山の作品は、44年に新宿中村屋裏にアトリエを移築し、碌山館として作品を保管した。 大正5(1916)年4月、碌山の作品その他(ほか)の資料が生家に送り届けられ、別棟を造って、6年7月から公開された。 現在の碌山美術館が開館したのは、昭和33(1958)年4月22日(碌山忌)である。それより先、南安曇教育会に碌山研究委員会が設けられ、調査研究 が進められていた。併せて、地元の穂高町と南安曇教育会が一つになって、碌山美術館設立委員会も発足した。長野県下の小中学生の寄付金を含め、多くの人々 の熱意によって誕生した。本館扉の内側に、「館は二十九万九千百余人の力で生まれたりき」と記されている。 碌山美術館本館の壁には、「LOVE IS ART,STRUGGLE IS BEAUTY」(愛は芸術なり、相克は美なり)という碌山の究極的な思想 といわれる言葉が刻まれている。 (松本市文書館館長=松本市) 隔週日曜日掲載 |
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