27.立石清重

開智学校を建てた棟梁


 新しい時代の文明開化の一つのシンボルとして、人々の目を見張ったのが、新築された眩(まばゆ)いばかりの開智学校。明治9(1876)年に松本の南深 志町が筑摩県に報告した絵を見ると、千歳(せんさい)橋の本町側に「開智学校」の看板があり、そこから女鳥羽川下流に進むと、開智学校の校舎が見える。
 開智学校が、松本本町の女鳥羽川畔の全久院跡に建てられた筑摩県学を改修し開校式を挙げたのは、6年5月6日であった。新築計画は6年に起こり、7年に 入ってから具体化された。8年4月21日起工、1年後の4月18日、開智学校で上棟式が行われた。「信飛新聞」は、近在近郷から見物人が押しかけ人力車の 通行も止まり、馬の往来もできない混み具合と報じ、「建物の出来は、日本第一等の小学校」と伝えた。続いて4月22日、官民こぞって盛大な新築開校式が挙 行された。
 この開智学校の写真は、17年に米国ルイジアナ州ニューオーリンズ開催の万国工業博覧会と、25年のシカゴの万国博覧会に出品された。松本の開智学校 は、当時の日本を代表する学校建築だった。
 筑摩県が開智学校新築を計画した時、棟梁(とうりょう)として白羽の矢が立ったのが立石清重だった。旧松本藩出入りの棟梁だった清重は当時46歳、初め て手がける洋風学校の設計に苦心して取り組んだ。
 開智学校の建築に当たり、8年1月半ばから2月末まで自費で上京し、洋風建築を見学して歩き、横浜まで足を延ばした。東京大学の前身である開成学校や東 京医学校の建築様式を調査し、帰県後、直ちに設計・見積もりにかかり、4月に「開智学校新築仕様帳」を提出した。板ガラス、扉の把手(とって)、蝶番 (ちょうつがい)などの金具類はすべて東京で舶来品を購入した。
 119人の番匠を率いて工事を完成させた棟梁清重に、筑摩県から賞詞が送られた。開智学校新築によって、擬洋風建築の最も優れた建築家の一人となった清 重を、「松本新聞」は「松本一等の大工職の棟梁」と賞讃(しょうさん)した。
 清重は立石清三郎の次男として文政12(1829)年6月15日に松本の東町に生まれた。代々棟梁の家柄で、松本藩戸田氏にも出入りしていた町大工だっ た。白木屋清重・加久清とも称し、号は朝棟だった。明治5年に伍長を命ぜられており、町内の世話役として人望も厚かった。
 清重の子は、長男清吉と長女八寿の2人だった。清吉(後に清美と改名)は、4年に松本近郊の蘭医のもとに入門して勉強し、上京した。清吉の入学した東京 医学校は、現在の東大医学部の前身である。開智学校は、東京の開成学校を見学し、それに範をとったと伝えられている。しかし、正面全体の姿は、むしろ東京 医学校の建築により近いという。
 医学校は、工部省営繕寮によって8年7月起工、翌年11月に完成したもので、開智学校の設計には間に合わなかった。だが、7年12月に、医学校は建築予 算の上申をし、詳細な坪数と予算を記載しており、設計はかなり進んでいたという。
 長男清美の縁で、その頃に計画進行中だった東京医学校の設計図を清重が見たのではないかといわれる。清重が上京した折には、息子とも久しぶりに対面し、 開成学校などを案内したであろう。
 開智学校の建築には、清重・清美父子の愛情が込められているといってよい。
 開智学校の工事が進んでいた8年9月、東京医学校に学んでいた清美が、卒業を目前に控えて急病死した。18歳であった。曽孫(ひまご)の立石清氏は、清 重が「松本から駆け付けた時、遺体は薬漬けになっていたそうです」と回想している。
 清重は、開智学校新築の仕事に打ち込むほかなかった。
 清重は、長女八寿の子の友三郎(清重の孫)に2代目清重を名乗らせ、家業を継がせた。引きとって養育した孫を、長男の例に懲りて東京に遊学させることは しなかったという。
 2代目清重(1882〜1916)は、横浜に出て建築家についたが、病弱のため松本に帰った。画をよくし、松本の文化運動に力を尽くしたが、33歳で 逝った。
 清重の棟梁としての活躍は、けして衰えなかった。洗馬学校、松本裁判所、大町裁判所、筑摩県師範学校、東筑摩中学校、東筑摩高等小学校、長野県会議事堂 などの工事を請け負い、その活動範囲は、佐久・長野・大町にまで及んだ。
 明治22年12月21日に完成した県会議事堂は、落成式翌日の22日午前4時半、失火によって焼けうせた。その日、清重が松本に帰る時に、冠着(かむり き)で汽車から振り返ったら燃えていたと語っていたという。
 清重の建てた立石家の土蔵は梁間(はりま)4間半、桁行(けたゆき)3間で、階上奥に京間の蔵座敷のついた建物だった。45年の大火の時、曽孫の清氏の 母は蔵の戸を全部締め、入り口の土戸の周りに味噌(みそ)を塗って逃げたという。蔵の中には煙一筋も入ることなく、清重の丹念に書き記した帳簿図面なども 無事に残った。
(松本市文書館館長=松本市)
隔週日曜日掲載