20 .今井兼次

 今井兼次が信州に初めて訪れたのは昭和2(1927)年12月、母校早稲田大学山岳部が北アルプスで遭難したときだ。
 今井は大正15(1926)年に留学。スペインでガウディを知り、日本に最初に紹介した。昭和初期の日本ではガウディの建築に対し「これが建築か」と誰 も相手にしなかった。今井の内では、生涯ガウディに対する尊敬と憧れが沸々としていた。
 今井は全国各地に優れた建築を残した。まず、長崎市にある日本二十六聖人殉教記念館を思い出す。ここは彫刻と建築が相まって美的空間が形成され、私が訪 れたときも建設当時の空間が保存されていた。日本二十六聖人殉教像レリーフは舟越保武の制作による。この記念館で最も記憶に残るのは、〈信徳の壁〉という モザイクによる大きな壁面だ。この記念館は碌山美術館の教会風の建物が完成した後に設計された。〈信徳の壁〉に使った陶片は瀬戸、信楽、織部や二十六聖人 が辿(たど)った九州各地の窯元を今井や早稲田大学建築科今井研究室のスタッフが自ら回って拾い集めた。その行為は、碌山美術館の教会風建物の、外壁レン ガが当時の穂高中学生徒の協力によって積み上げられたこと、スペインのサグラダ・ファニリアが多くの人の善意によって現在も建設が進行中していることと重 なる。
 次に思い出されるのは早稲田大学図書館、今は会津八一記念館になっている建物だ。この建物は今井の初期の設計で、今井は「建築とは実際にどういうものだ ということを、働く人々の中にあって教えられた」と述べている。この建物の中には八一の収集した遺品や、横山大観と下村観山の合作の絵、岡崎雪聲の鋳造 (ちゅうぞう)作品、上條俊介の作品もある。この建物は、周囲の多くの建物のなかであまり目立たないが、内部は重厚な作りだ。他にも遠山記念館、大隈記念 講堂、燕山荘(えんざんそう)などが思い出される。
 今井の設計した建物を幾つか思い出してみると、今井の建築は彫刻のように周囲の空間と密接な関係を持ち生かされている。今井は大学時代に彫刻家の武石弘 三郎に師事して彫刻を学んだ。そして建築彫刻家になろうと考えたこともあった。
 今井の建築が醸し出す空間は透明で鋭く、建築がその真価を表すのもそのような空間だ。彫刻家の淀井敏夫が、厳冬に生家の碌山館を訪ねて来たとき、自分の 周りを透明でカチンとした空間が四角く包みずっと付いてきたと話してくれた。
 昭和40年頃の、碌山美術館の教会風の建物も鋭くカチンとした空間をまとって凛として立っていた。荻原守衛の彫刻を見て、美術館の建物を見て、周囲に広 がる山々を見ると心は洗われすっきりした。それは、空間と立体の美に心が満たされたからだ。
 今井は碌山美術館の教会風建物を設計するにあたり「私の好きな北欧風の教会のようなものとし、碌山先生の精神的な人間像を心に求めながら働いた。それゆ えか、降雪の中に立ちつづける美術館への想念のみが、私の設計意図を最後まで導いてくれた。」と述べている。
(美術史家・千田敬一=安曇野市)

 今井兼次 いまい・けんじ(1895│1987)
 明治28(1895)年、東京青山に生まれる。大正8(1919)年、早稲田大学建築学科卒業。12年、早稲田大学大隈記念講堂設計原案。14年、早稲 田大学図書館設計。大正15年にソ連や欧米に留学し、昭和2(1927)年帰国。4年、早稲田大学山岳部針ノ木遭難記念碑設計。8年、燕山荘設計案。23 年、カトリック受洗。33年、碌山美術館設計。37年、日本二十六聖人殉教記念館設計。40年、早稲田大学を定年退職。53年、日本芸術院会員。昭和62 年、5月20日没。(肖像・広瀬正俊撮影)