安曇野を歩く
 97・ カチューシャの唄
  家庭を捨て、大学教授の地位を擲(なげう)ち、さらに 門下のすべてに叛(そむ)かれた抱月は、須磨子を守って、やみくも三月の帝劇公演に突き進まなければならなかった。そうなると、ただ一すじ、大衆娯楽演劇 の道しかなかった。(中略)トルストイ原作「復活」であった。劇中で、須磨子にカチューシャの歌を唄わせようというもくろみであった。歌詞の第一節は抱月 がつくり、二、三節は相馬御風(ぎょふう)の作とかいうことであった。曲は書生の中山晋平につくらせた。だが、初日が迫るのにさっぱり出来ず、抱月と須磨 子にせめたてられて青くなったが、神にねがいをかけましょか、のむすびの句の前に、ララという囃子(はやし)文句をはさんでみたら、たちまち出来た。
(『安曇野』第三部 その十三)


手 携えて“復活”上演

 島村抱月(ほうげつ)と松井須磨子の不倫発覚に、早稲田大学の学内、文芸協会内は揺れに揺れた。
 大正2(1913)年5月、苦悩の抱月は文芸協会会長の坪内逍遥(しょうよう)にあて長文の申し開き(手紙)を送った。逍遥はそれを読んで苦虫を噛 (か)みつぶし、手紙は送り返し、須磨子に対しては退会処分を言い渡した。抱月は激して「私は始めて人生に気がついた。(中略)お前の行く所は唯(ただ) 一つ、松井すま子の手へ!」と返された手紙に書きつける。(宮坂勝彦編『松井須磨子』)
 抱月は腹を固め、文芸協会幹事を辞任する。加えて早稲田大学教授の職も辞し、妻子も捨て、世間の冷たい風にさらされながら須磨子との愛、須磨子の女優と しての才能に自らの後半生を賭(か)けて突き進んでゆく。
 当時、島村家に書生で住み込んでいた中山晋平は、抱月と市子夫人の修羅場(しゅらば)に遭遇し、師と仰ぐ人の家庭がもろくも崩れ去るの目の当たりにし て、その悲しみと驚きを書き留めている。やがて抱月が須磨子と同棲(どうせい)を始め、家主不在の島村家に居づらくなった晋平は、9年近くに及んだ書生生 活に終止符を打ち、巣鴨の借家に移る。(町田等監修『カチューシャの唄よ、永遠に』)
 抱月は若い早稲田文士たちの支援を受け、新劇団「芸術座」を須磨子と立ち上げた。創立メンバーには詩人の相馬御風(ぎょふう)、水谷竹紫(ちくし)(女 優水谷八重子の義兄)、沢田正二郎(しょうじろう)(のちに新国劇を創立)らが名を連ねた。
 のるかそるか。大正3年3月、第3回公演としてトルストイの「復活」を抱月訳・演出により帝国劇場で上演するが、抱月は原作から難しい思想性を省き、カ チューシャと青年士官の哀(かな)しい恋物語にした。抱月は留学中にロンドンでこの演劇を見ていた。劇中歌が歌われて印象的だったため、自作にも劇中歌を 入れたいと考え、作曲を誰にすべきか御風に相談する。
 御風は言った。「君のところにいる晋平君が、歌のメロディーを持って私に作詞してほしい、とお願いにきたことがある。彼は実にいいものをもっている。晋 平君なら期待に沿った曲を作れるだろう」
「そうだったのか。あなたに推薦された晋平君は幸せ者だ」
 抱月は晋平に作曲を依頼する際、唱歌でも賛美歌調でもない、全く新しい旋律の曲にしてくれと注文した。晋平は躍り上がるような喜びを胸に、抱月と御風作 詞の歌の作曲に取りかかるものの、「復活」幕開きの日が近づいてもできず、呻吟(しんぎん)した。
 のちに晋平は「上演の3日前、私は用事があって抱月先生のお宅へ戻るべく、早稲田から高田馬場の方へぶらぶら歩いていた。その時です。ふと心に浮かんだ 一つのリズム、口づさむともなく口づさんだ一つのメロディー、それがカチューシャの歌になったのです。私が作曲家として出発した記念すべき『その日』で す」と振り返っている。晋平27歳。東京音楽学校ピアノ科を卒業し、浅草の小学校の音楽専科訓導になっていた。
 ^^カチューシャかわいや 別れのつらさ せめて淡雪(あわゆき)とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょか−− 
 この「カチューシャの唄」は「復活」の第1幕と第4幕で須磨子によって披露された。
 劇中で歌うという斬新(ざんしん)な仕掛けと、何とも言えない歌の哀調が見る者聞く者の心に染み渡って一世を風靡(ふうび)、レコードに吹き込むと、当 時としては驚異的な2万枚を売り上げて流行歌のはしりとなり、松井須磨子を国民的女優にまで押し上げた。

 文と写真/赤羽康男