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| 92・ 伊藤 野枝 |
大杉と野枝とが相知ったのは、第一次「近代思想」で、野枝の飜訳(ほんやく)した「婦人解放の悲劇」を大杉が推賞して以来のこと だった。その「近代思想」を廃刊して、月刊「平民新聞」をおこし、創刊号が発売禁止になると、「青鞜(せいとう)」の編集にたずさわっていた野枝は、抗議 の文を誌上に載せた。そんなことがかさなって、大杉は野枝にローザ・ルクセンブルグの肖像写真を送り、野枝からは長い謝礼の返事がきた。 やがて大杉は野枝を自宅に訪ねたが、夫の辻がいるために、存分に語ることができなくて、いつも心残りの思いがあった。 (『安曇野』第三部 その十) |
大杉に走り青鞜終刊 大正4(1915)年の1月号から『青鞜(せいとう)』の発行人は伊藤野枝(のえ)になる。平塚らいてうは奥村博と同棲(どうせい)を始め、生活が苦し くなって発行どころではなくなっていた。部数も減り、廃刊にしようかと思い悩んでいる最中(さなか)、野枝が「私にやらせてください」と名乗り出て、らい てうは20歳の野枝に発行権を譲った。 この辺の経緯(いきさつ)が『青鞜』5巻1号に載っている。らいてうは「慌(あわただ)しい雑事のために私の中の貴い力を放散し、私の生命の中から活力 を奪い去られてどうしよう。自己を外(ほか)にして、私の心の中の世界を育てることを外にして婦人問題も婦人の自覚も私にある筈(はず)がない」と述べ て、自身の内的生活に帰ろうとする。 一方、野枝は「田舎者の私がどんなことをやり出すか見ていて頂きたい。兎(と)に角(かく)私はこれから全部私一個の仕事として引きつぎます。私は私一 人きりの力にたよります」と気負って書き記している。 野枝はそれまでの規約をすべて取り外し「無規則無方針、無主義無主張」で臨んだ。しかし、実際は「左傾」してゆく。野枝の手で発行された期間、「貞操」 「堕胎」「婦人社会事業」の3つの論争が繰り広げられ、堕胎論争では発禁処分を受けた。 野枝の意気込みも長くは続かず、1年2カ月後の大正5年2月、6巻2号をもって『青鞜』は無期休刊となる。野枝が辻潤(つじじゅん)を捨て、無政府主義 者の大杉栄に走ったのが直接の要因であった。 伊藤野枝とはどんな女性だったのだろう。『伊藤野枝全集』(全2巻)をひもといてみる。 野枝は明治28(1895)年、福岡県の今宿村(現・福岡市)に生まれた。東京に出て勉強したいと上京し、上野高女に編入がかなう。そこに新任の英語教 師・辻潤(のちのダダイスト、評論家)がいた。2人は親しくなる。野枝の郷里では結婚話が進み、彼女は卒業後、一度は婚家に入るもののすぐ飛び出し、辻の 家に転がり込んだ。辻は女生徒をかどわかしたとして学校をくびになるが、2人は「昼夜の別なく情炎の中に」暮らした。 辻は野枝に『青鞜』の存在も教えたと思われる。彼女はらいてうを訪ね、その知性、品性、美しさに目を見張る。編集事務に携わらせてもらい、本来の積極性 と野生的な熱情に火がつく。国家や社会の攻撃にさらされて弱腰になったお嬢さん同人たちを励まし、時には反論しつつ『青鞜』の中心的存在に成長する。 雑誌『近代思想』を編集していた大杉は野枝に注目し、2人は互いの誌面で評価し合い、惹(ひ)かれ合い、ついに野枝は辻との間にできた二男を背負って大 杉のもとに走る。「当日は御互(おたが)い静かにして幸福を祈りながら別れた」という。(『辻潤著作集4』) しかし、辻は野枝に去られた後、生活がいっそう荒(すさ)んでしまった。 野枝が大杉との愛を勝ち取るまでには、大変な修羅場(しゅらば)が待ち受けていた。なぜなら、大杉には内縁の妻(堀保子)がおり、加えて恋人の神近市子 (かみちかいちこ)がいたからだ。三角関係どころか四角関係。結局は若い野枝が、情痴事件を経てライバルを追いやった。世間や同志から罵(ののし)られな がらも、野枝は大杉と8年をともに生き、その間に5人の子どもをもうけている。 市井(しせい)の文学者、伊藤正住さん(59)=堀金村烏川=は「大杉栄の周りの女性たちは、みな個性に満ち満ちている。野枝は短い生涯だったが、とて も魅力がある」と評価する。 文と写真/赤羽 康男 |
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