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| 70.パンの会 |
| 「あれが白秋だよ。『邪宗門』の北原白秋だよ」 柏亭に教えられ、改めて青年を見た。守衛は、ただわけもなく、ほっそりした憂(うれ)い顔のやさ男を想像していただけに、瞬間とまどいを覚えた。肥え 太って、厚い口髭(くちひげ)をたくわえた、いたって健康そうな青年であった。 詩集「邪宗門」は、つい先月出たばかりだった。濃い赤と金と白、それに唐草模様をあしらった柏亭の装幀(そうてい)は妙に魅力的だった。 (『安曇野』第二部 その二十二) |
カ
フェ文化を模倣空に真赤(まっか)な雲のいろ。 玻璃(はり)に真赤な酒のいろ。 なんでこの身が悲しかろ。 空に真赤な雲のいろ。 「パンの会」の会歌となった北原白秋の詩である。 「パンの会」は、「新詩社」を脱退して『スバル』に転じた白秋、木下杢太郎(もくたろう)、吉井勇らに石井柏亭、高村光太郎ら青年美術家を交えて明治 41(1908)年12月、第1回の会合を開いている。 新詩社は与謝野鉄幹が興した文学結社、機関誌『明星』で有名だ。この『明星』が41一年に100号を出して廃刊となり、森鴎外を指導者に文芸雑誌『スバ ル』が発刊される。編集兼発行人は石川啄木である。月1回、鴎外邸で開かれ、次第に文学サロン的な集まりになる。この会に美術雑誌『方寸』を出していた柏 亭などが加わり、自由奔放な「パンの会」が始まるのだ。 「パンの会」に42年3月13日、荻原碌山(守衛)が一度だけ参加した。臼井吉見の『安曇野』には会の乱痴気ぶりが、まるで臼井がそこにいたかのように 活写されているが、碌山は騒ぎになじめず、かえって孤独感を深めたようだ。 「会が閉じられて、一同街上に溢(あふ)れ出た。勇らは、これから吉原遊廓(ゆうかく)へくりこむとか、意気ごんでいた。(中略)守衛はよろめきなが ら、彼らの後を追って行き、万世橋から赤電車でひとり新宿へ帰った。今夜の会へ出たことへの悔(くや)みが重く心に残った。どうみても自分とは無縁な世界 であり、こういう雰囲気の会合から実質的な何かが生まれようとは思えなかった。画室に戻ると、蒲団(ふとん)を引っぱり出して、倒れるように身を埋めた。 空に真赤な雲のいろ 玻璃に真赤な酒のいろ なんでこの身が悲しかろ 空に真赤な雲のいろ くりかえして歌っているうちに涙が溢れてきた。やがて、歌いやめて泣き伏してしまった」 真面目で純粋で傷つきやすく涙もろい碌山という青年の気質、報われぬ恋に苦しみ悩む悲しい姿が浮き彫りにされている。 「パンの会」について木下杢太郎(詩人、劇作家)が回顧している。「日本にはカフエエというものがなく、随(したが)ってカフエエ情調などというものが ないが、そういうものを一つ興(おこ)して見ようぢゃないかというのが話のもとであった。(中略)上田敏氏が活動せられた時代で、その翻訳などからの影響 で、巴里(ぱり)の美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかったのだ」(「パンの会の回想」) 「パンの会」は当時文壇を支配していた自然主義文学に対抗する耽美(たんび)的文学風潮を巻き起こした。 このころ豪華詩集『邪宗門』を刊行し、詩壇の高い評価を得ていた白秋だったが、最初の妻俊子との生活の破綻(はたん)によって落ちぶれてしまう。 俊子は白秋の隣家に住む美しい人妻だった。恋仲となり、夫から姦通罪(当時はこんな罪があった!)で訴えられ、市ケ谷の未決監に拘留された。白秋は世間 の激しい指弾を受け、精神錯乱状態に陥った。俊子の夫に示談金を支払って結婚したものの、翌大正3(1914)年に離婚している。 この体験が白秋を鍛え、童謡を含む近代詩歌の巨星にまで成長させたのはまちがいない。 「雨は林檎(りんご)の香(か)のごとく/しみじみとふる、さくさくと」(「銀座の雨」) 白秋は大変なリンゴ好きだった。信州を旅したときもリンゴを歌っている。五十七歳で息を引き取る日にも2片のリンゴを「うまい、うまい」と食べたとい う。 文と写真/赤羽 康男 |
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