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| 61.中村屋 新宿進出 |
| 中村屋が角筈(つのはず)の市電終点に移って来たの
は、昨年の暮(くれ)の十五日であった。本郷の大学正門前の店としては、これからさきの発展は見こまれないので、かねがね、あちこちに適当な場所をさがし
て慎重な検討をかさねた結果、目をつけたのがここであった。新宿は、青梅街道と甲州街道が東京の街なかへつながる入口であり、多摩川沿いにひろがる武蔵野
の農村へむすぶ東京の出口であった。(中略) 附近には、畑をかこんで雑木林がつづき、あちこちに、牛の遊んでいる牧場がはさまれていた。 (『安曇野』第二部 その二) |
飛躍目指し新天地へ 相馬愛蔵、良(りょう)(黒光(こっこう))夫妻は郷里穂高の家に長女・俊子を人質に残して上京し、本郷の東京帝国大学前でパンの「中村屋」を始める。 この経緯(いきさつ)はすでに書いたので繰り返さない。 夫婦は明治四十(一九〇七)年まで六年間、本郷で営業した後、新宿に移転するが、本郷時代の中村屋は日露戦争をはさんで売り上げを順調に伸ばした。 本郷時代の思い出の一つに、愛蔵は新商品の発売を挙げている。開業三年目の明治三十七年、夫婦はハイカラ品を何か打ち出せないかと考えていた。 ある日、愛蔵は築地でシュークリームという西洋菓子を買って帰り、良と食べてみた。あまりのおいしさにほっぺたが落ちそうになり、「このクリームを餡 (あん)パンの餡の代りに用いたら、栄養価はもちろん、一種新鮮な風味を加えて餡パンよりは一段上がったものになるな」と思いつく。 試作しているところへ旧知の島田三郎(毎日新聞社社長)が現れ、食べてもらうと「これはうまい。これはいい」とほめてくれ、自信を深めて店頭に並べる。 クリームパンとクリーム入りワッフル。売れに売れた。愛蔵は後年、「他の店でも作るようになり、今日ではもうありふれて珍しくもないが、こんなに拡(ひ ろ)がって日本全国津々浦々まで行き渡ったことは、私として愉快に感じる」と述べている。(『一商人として』) 余談になるが、本物の桜の葉を用いた桜餅(もち)も愛蔵の発案である。大正末期、季節感を漂わせる「新菓 葉桜餅」として売り出すと、これも大人気を博 した。 しかし、学生街の本郷では限界も見えていた。夫婦は飛躍を目指して新天地を求める。移転場所を新宿に定めるのだが、二人には先見の明があったということ だ。 良の回想録『黙移』に詳しく記されている。「方々(ほうぼう)歩き、新宿の只今(ただいま)店の在る辺りにまいりますと、それは場末(ばすえ)のいかに も侘(わび)しい町でしたが、いますぐそこに、どれだけの商いがあるか、それは疑問であるとしても、四谷の方からつづいて来ている地形といい、さらに郊外 へと伸びて出る関門に当っていますので、やがてはと直覚されるものがあり」、折しも間口二間(けん)の三軒長屋が建てられ、壁塗り作業が進んでいた。 良は「ここだ」という天の声を聞いて、躊躇(ちゅうちょ)することなく決める。夫婦はその場で二軒分の仮契約を結び、壁の仕切りを取り払ってもらう。 当時の、すなわち百年前の新宿は、汽車の内藤新宿駅がいまの新宿駅南口(甲州街道側)にあり、中村屋の東口はいわば裏玄関だった。現在の紀伊國屋書店は 薪炭(しんたん)商を営んでいた。遊廓(ゆうかく)に付属する商店がわずかに並ぶだけで、東京の街中に野菜を運んだ荷馬車は、帰りは肥料(こやし)を積ん で行った。 良は例の櫛(くし)巻き(日本髪の髪型の一種)、筒袖(つつそで)姿でかいがいしく働いた。客が途絶えると、紀伊國屋の「もっちゃん」が通りの向こうか ら見ているとも知らず、客を装って自分の店のパンを買ったりした。 近所のおかみさんたちの井戸端会議がとっくに終わった夜、近くの井戸に行って明日の米をとぎ、手桶(ておけ)に水をくんで家に戻った。木戸を閉めようと して空を仰ぐと、銀色の月が光り、一日精いっぱい働いた充実感に満たされるのであった。 文と写真/赤羽康男 |
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