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| 29.本郷の中村屋 |
| だまされたつもりで、愛蔵が出向くと、事情があって、売
りたい、家屋、設備、商品、荷車、職人、小僧、女中、いっさいを居ぬきのまま、700円でゆずりたいとのことだった。場所としても理想的で、夢のような話
だった。 さっそく等々力章五に手紙を書き、700円の借用を申し入れ、折返し承諾をえた。中村屋は年末30日にゆずり受け、移転ときまった。それまでは、なにも することはなかった。店を開ければ、休むひまもなかろうから、いまのうちに東京見物なり何なり、めいめい気のむくままにふるまおうということになった。 (第一部 その十八) |
相馬夫妻 第二の出発信州での田園生活を理想郷のように思い描いて穂高の相馬家に嫁いだ良(りょう)(黒光(こっこう))だったが、農村の現実を前に心身を病む。夫の愛蔵は 「妻の病気療養」を理由に生家を出、東京に移り住むことを決意する。 長女の俊子を里に残し、乳飲み子の安雄(籍は里)を連れての新たなる旅立ちだった。徒歩で長い峠道を越えて上田駅に向かった。明治34(1901)年九 月、木下尚江も守衛(のちの碌山)もすでに2年前に上京していた。 良は『穂高高原』でこう記している。「夫にたすけられ相馬の屋敷を離れるのであった。東裏にまわり、榛(はんのき)の林に通ずる傾斜を下り、水車小屋、 泉のほとりにはもう一度立ち寄りたいのを、もう私は歩みを止める暇がなかった。(中略)私は安らかに穂高の里から解き放たれ、止川、万水(よろずい)川、 あぶなげに揺れる土橋を渡る折にさえも『行けよ行けよ、とどまるなかれ』『希望に燃えよ、力を伸ばせよ』と軽やかな水の餞(はなむ)けを心躍(おど)らし きくのであった」。東京本郷に落ち着くと、良の病気はうそのように治った。夫婦は郷里の援助に頼らずに新しい生活を築こうと誓い、商売ならやっていけそう だと思った。 東京帝国大学が近いことから、コーヒー店の準備にかかろうとすると、一足早くミルクホール(現在の喫茶店)が本郷5丁目に開店してしまい、それならとパ ンに目を付けた。パンは当時、次第にインテリ層の生活に普及し始めていた。 「パンは一時のハイカラ好みに終わるのか、それとも一般家庭に歓迎されるものなのか」と考えあぐねた愛蔵は、自分で試してみるのが1番と、1日3食のう ち2食をパンにし、3カ月続けてみた。「よし、いける」 その年の暮れ、夫婦は日刊紙「万朝報(よろずちょうほう)」に「パン店譲り受けたし」と三行広告を出す。すると、その日のうちに数カ所から反応を得、何 と帝大正門前の中村屋が含まれていた。中村屋は愛蔵が3カ月間、パンを毎日買い続けた店、繁盛しているように見えた。話を聞いてみると、手放したくはない が、主人が相場で失敗し、問屋の取引を停止されたため、700円で買ってほしいという。 愛蔵は郷里の友人から借金し、12月30日、中村屋の経営に乗り出す。商品からかまど、製造道具、配達小車、職人、お手伝いまでそっくりそのまま引き継 いだ。 愛蔵の研究熱心さがパンの将来性を見抜いた。そして幸運にも中村屋を譲り受けた。運命としか言いようがない。 夫婦は明治40年まで本郷で営業し、新天地(新宿)に移転する。 東京大学正門前、本郷通りをはさんで真向かいのそば屋「太田屋」で「中村屋さんが昔、この辺りにあったはずなんですが」と尋ねると、女将(おかみ)の清 子さん(70)が覚えていた。 もっとも相馬夫婦の中村屋であろうはずはない。夫婦は新宿移転後、長束実という「子飼い」の店員にここを譲った。しかし、長束は早死にし、他の人に経営 は移った。 清子さんによると、通りを数軒向こうに行った化粧品屋さんの隣、コインランドリーの場所に、20年ほど前まで中村屋はあり、主人と娘さんがパン屋を長く やっていたという。 そうか、中村屋はずっと存続し、しかもパン屋だったのだ。ここまで来たかいがあった。「コッペパンがおいしかった。買ったパンをサンドイッチにして、子 どものお昼に持たせたこともあったよ」と清子さん。 通りの右手に堅ろうな造りの東大正門、その奥の安田講堂を横目で眺めながら、化粧品店に向かった。 文・赤羽康男/写真・山田 毅 |
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